当時を思い起こし、考えた末にわたしが今、言えることは、それはひとつです。「あのような非人間的な状況にあっても、過酷な運命に打ち克つように、あるいは辛い体験を少しでも和らげるようにと他の人たちに手を差し伸べた人間がいた」ということです。
ユダヤ人に手を貸したり、救出したりすることは非常に困難で危険でした。それでも人々は様々な手段で彼らに手を差し伸べました。わたしのギムナジウム時代の友人マリア・ヴォザチンスカは自分の洗礼証明書をユダヤ人同級生のイーダ・クレインに渡しました。これによってイーダはアーリヤ人としての身分証明書でパレスチナに脱出することに成功しました。
「組織化」という言葉は収容所では、ある品物を他の品物と交換することによって自分に必要な品物を手に入れることでした。
「組織化」によって入手できる品物は他にもありました。それはカナダ、つまり選別後すぐにガス室とクレマトリウムに送られたユダヤ人が降車場に残した衣服や持ち物を貯蔵、分類していた倉庫のことですが、そのカナダで働いている囚人が失敬した品物です。この「組織化」という形態は命を賭して行われました。見つかると厳しい処罰が待っていました。
ヨーロッパの高度な文化を創造したドイツ民族から、どうしてこんな無法と悪が生まれたのでしょうか?異民族を、他の人間を屈辱的絶滅に到らせる憎悪の思想をドイツ民族はいかにして習得することができたのでしょうか?
周囲の囚人たちは音楽隊の存在を様々な目で見ていました。ある囚人はわたしたちのことを「絹の環境」の中で生きている収容所のエリートとみなし、わたしたちが演奏していること自体に怒りを露わにしました。メンバーの中には強制的に音楽隊に入れられた者がいたことなど、彼らは知りませんでした。
わたしたち元収容所音楽隊メンバーは戦後になってからも囚人社会から、そして収容所体験のまったくない人たちからも、冷たい視線を浴びせられました。そういうこともあって、わたしたちはあの時代について語ることをタブーとしてきました。
年のせいでわたしの物忘れは酷くなっていますが、強制収容所で体験したことだけは忘れようにも忘れられません。それは警告のための記憶です!
わたしの運命、苦痛に満ちた体験は平均的ポーランド人が味わった一部分だと思っています。わたしは小さな歯車でした。その歯車は弱かったけれど、何とか持ちこたえました。確かなことはひとつ。もしもわたしにバイオリンがなかったら、生きのびることはできなかったでしょう。人生が終わりを迎えようとしている今、そんなことを書く価値はあるのでしょうか?それは読者のみなさんの評価に委ねることにします。
「福祉の町 ベーテル ヒトラーから障害者を守った牧師父子の物語」橋本孝著 "希望を持つ”
感想;
強制収容所では生きるために必死でした。
その前に選別されて多くの人がガス室に送り込まれましたが。
ユダヤ人600万人、それ以外にロマ人(ジプシー)や反政府行動したポーランド人も亡くなりました。
著者は、知らない内に反ナチスだったポーランド人に部屋を貸したために母と一緒に収容所に入れられました。母は収容所で亡くなりました。
収容者の中から、収容者を監督する”カポ”が選ばれました。
カポに選ばれたことは、生き残るチャンスが収容者より高くなることを意味していました。
そのため、同胞の仲間に虐待など厳しく当たりました。
それは、そうしないとカポの役目をはく奪されるからです。
音楽隊に入れられたことは、同じく生き延びる確率が高まります。
しかし、カポにも、音楽隊にも、そのような特別の待遇を与えられずに何とか生き延びた人にとって、そのような人を敵視する思いになったのも自然だったのでしょう。
そのため、著者もずっと沈黙を守っていました。
本来、仲間同士が反目し合うのではなく、巨悪の根源はヒトラーであり、ヒトラーに協力した人々であり、それを許した国民だったのですが。
歴史は繰り返します。
少しでも、歴史から学んで愚かな過ちを少しでも減らすかどうかが問われているのだと思います。
ドイツはその反省を行い、次の世代に伝えています。
一方、日本は戦争責任は自らは明確にせず、ノモハン事件やインパール作戦で多くの兵士を無謀な計画で亡くし(多くは餓死と病気)たことの反省も責任者の処罰もしていません。
かつ、このようなことは学校では教えずに、本を読まないと知りません。
日本は戦争での過ちを繰り返さないために次世代に伝えていません。
伝えないだけでなく、秘密保護法、集団自衛権、共謀罪と戦前の戦争ができる環境整備を着々と行っています。
森友学園では、園児に「教育勅語」を素読させていたとのことです。
それは素晴らしいと稲田防衛相、安倍首相も称賛されていました。
教育勅語には、「天皇陛下のためには、いのちを捧げます」との内容です。
天皇陛下のためと標榜して、どれだけ多くの尊いいのちを失って来たのでしょう。
天皇陛下はそれよりも、戦争の反省の活動をされています。
ヒトラーを生んだのはドイツ国民でした。
それを反省し、同じ過ちを繰り返さないために今できることを実践しています。
それは国民が反省し、それを実践する政権を選択しているからです。
ところが今の日本は、反省をせず、次世代に伝えず、戦争が出来る環境整備を進めている政府を支持しています。
それだけ、国民が戦争に対して鈍感になってきたのでしょうか?
子どもたちを戦地に行かせ、人を殺害させる戦争を望んでいるのでしょうか?
義父はシベリア抑留になりましたが、「気がついたら反対できなくなっていた」と言っていました。反対できる今こそ、声を上げないといけないのですが・・・。
ユダヤ人に手を貸したり、救出したりすることは非常に困難で危険でした。それでも人々は様々な手段で彼らに手を差し伸べました。わたしのギムナジウム時代の友人マリア・ヴォザチンスカは自分の洗礼証明書をユダヤ人同級生のイーダ・クレインに渡しました。これによってイーダはアーリヤ人としての身分証明書でパレスチナに脱出することに成功しました。
「組織化」という言葉は収容所では、ある品物を他の品物と交換することによって自分に必要な品物を手に入れることでした。
「組織化」によって入手できる品物は他にもありました。それはカナダ、つまり選別後すぐにガス室とクレマトリウムに送られたユダヤ人が降車場に残した衣服や持ち物を貯蔵、分類していた倉庫のことですが、そのカナダで働いている囚人が失敬した品物です。この「組織化」という形態は命を賭して行われました。見つかると厳しい処罰が待っていました。
ヨーロッパの高度な文化を創造したドイツ民族から、どうしてこんな無法と悪が生まれたのでしょうか?異民族を、他の人間を屈辱的絶滅に到らせる憎悪の思想をドイツ民族はいかにして習得することができたのでしょうか?
周囲の囚人たちは音楽隊の存在を様々な目で見ていました。ある囚人はわたしたちのことを「絹の環境」の中で生きている収容所のエリートとみなし、わたしたちが演奏していること自体に怒りを露わにしました。メンバーの中には強制的に音楽隊に入れられた者がいたことなど、彼らは知りませんでした。
わたしたち元収容所音楽隊メンバーは戦後になってからも囚人社会から、そして収容所体験のまったくない人たちからも、冷たい視線を浴びせられました。そういうこともあって、わたしたちはあの時代について語ることをタブーとしてきました。
年のせいでわたしの物忘れは酷くなっていますが、強制収容所で体験したことだけは忘れようにも忘れられません。それは警告のための記憶です!
わたしの運命、苦痛に満ちた体験は平均的ポーランド人が味わった一部分だと思っています。わたしは小さな歯車でした。その歯車は弱かったけれど、何とか持ちこたえました。確かなことはひとつ。もしもわたしにバイオリンがなかったら、生きのびることはできなかったでしょう。人生が終わりを迎えようとしている今、そんなことを書く価値はあるのでしょうか?それは読者のみなさんの評価に委ねることにします。
「福祉の町 ベーテル ヒトラーから障害者を守った牧師父子の物語」橋本孝著 "希望を持つ”
感想;
強制収容所では生きるために必死でした。
その前に選別されて多くの人がガス室に送り込まれましたが。
ユダヤ人600万人、それ以外にロマ人(ジプシー)や反政府行動したポーランド人も亡くなりました。
著者は、知らない内に反ナチスだったポーランド人に部屋を貸したために母と一緒に収容所に入れられました。母は収容所で亡くなりました。
収容者の中から、収容者を監督する”カポ”が選ばれました。
カポに選ばれたことは、生き残るチャンスが収容者より高くなることを意味していました。
そのため、同胞の仲間に虐待など厳しく当たりました。
それは、そうしないとカポの役目をはく奪されるからです。
音楽隊に入れられたことは、同じく生き延びる確率が高まります。
しかし、カポにも、音楽隊にも、そのような特別の待遇を与えられずに何とか生き延びた人にとって、そのような人を敵視する思いになったのも自然だったのでしょう。
そのため、著者もずっと沈黙を守っていました。
本来、仲間同士が反目し合うのではなく、巨悪の根源はヒトラーであり、ヒトラーに協力した人々であり、それを許した国民だったのですが。
歴史は繰り返します。
少しでも、歴史から学んで愚かな過ちを少しでも減らすかどうかが問われているのだと思います。
ドイツはその反省を行い、次の世代に伝えています。
一方、日本は戦争責任は自らは明確にせず、ノモハン事件やインパール作戦で多くの兵士を無謀な計画で亡くし(多くは餓死と病気)たことの反省も責任者の処罰もしていません。
かつ、このようなことは学校では教えずに、本を読まないと知りません。
日本は戦争での過ちを繰り返さないために次世代に伝えていません。
伝えないだけでなく、秘密保護法、集団自衛権、共謀罪と戦前の戦争ができる環境整備を着々と行っています。
森友学園では、園児に「教育勅語」を素読させていたとのことです。
それは素晴らしいと稲田防衛相、安倍首相も称賛されていました。
教育勅語には、「天皇陛下のためには、いのちを捧げます」との内容です。
天皇陛下のためと標榜して、どれだけ多くの尊いいのちを失って来たのでしょう。
天皇陛下はそれよりも、戦争の反省の活動をされています。
ヒトラーを生んだのはドイツ国民でした。
それを反省し、同じ過ちを繰り返さないために今できることを実践しています。
それは国民が反省し、それを実践する政権を選択しているからです。
ところが今の日本は、反省をせず、次世代に伝えず、戦争が出来る環境整備を進めている政府を支持しています。
それだけ、国民が戦争に対して鈍感になってきたのでしょうか?
子どもたちを戦地に行かせ、人を殺害させる戦争を望んでいるのでしょうか?
義父はシベリア抑留になりましたが、「気がついたら反対できなくなっていた」と言っていました。反対できる今こそ、声を上げないといけないのですが・・・。