幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「人間はどういう動物か」日高敏隆著(4)"共生とは利己主義が調和した状態”

2017-03-23 08:50:08 | 本の紹介
マメ科植物の一種の葉には、ごく小さなハダニがつく、このダニは、葉の汁を吸って、たちまちふえる。葉は萎え、植物は枯れそうになる。するとこの植物はある特別な物質をつくりはじめ、それを空中に拡散する。この物質のにおいは、カブリダニという別の種のダニをひきつける。カブリダニは肉食性のダニで、ハダニをつかまえて食っているのである。食部tの放つSOS物質のにおいでカブリダニが集まってきて、葉を枯らしているハダニを片っぱしから食べ始める。こうして植物は救われる。問題はだれがそれをデザインしたかということだ。

自然界に見られるみごとな「共生」が、じつは二つの生物のもつ異なる、そしてそれそれに利己的な論理のせめぎあいの結果として到達されたものであるとすれば、人間の倫理だけでつくりだされた緑の庭は、けっして共生とは言えない。

人間は人間の倫理で生きてゆくほかはない。しかし同時に、そこにはほかの生きものたちの論理があり、自然の論理もあるのだということを忘れてはなるまい。共生とは、異なる論理のせめぎあいの中で生まれてくるものであり、そうであるからこそ、そこに従来のとは異なった新しい美も生まれてくるのかもしれないのだと思う。

動物行動学
1)動物の行動がどういうしくみで起こるか
2)ある行動をすると、結果として動物にとってどういう得があるか
3)生まれた赤ん坊はなにもできないけれども、おとなになるとそこそこのことができるようになる。それはおとなになれば自然にできるようになるのか、それとも学習の結果なのかという、一匹尾動物における行動の発達の問題
4)体の形が進化するのとは別に、行動が進化するとはどういう具合になるのか。

しくみ、機能、発達、進化の4つの柱。

みごとな共生という話も、じつはみんなが利己的にせめぎあった結果として収まったところが共生に見えるだけだとすると、「自然と人類の共生」をうたっても、どうしたら共生できるのかというのは難しい問題になる。

日本人は、フランス人は不親切だという。ドイツ人は親切だという。ドイツ人は困っていると近づいてきて尋ねてくれる。フランス人は尋ねてくれない。しかし、フランス人に尋ねると教えてくれる。ドイツ人や日本人はある意味おせっかいなのである。フランスでは秘密のことがあるかもしれないから、いちいち聞くのは失礼だと考える。だから向こうから聞いてこない限りまず絶対に声をかけたりはしない。親切とおせっかいは紙一重みたいなところがある。

最近の動物行動学では、動物たちはだれも種族のことなんか考えていない。要するに自己の血のつながった子孫ができるだけふえてほしいとしか思っていない、とされている。巣の中にひなを何羽か育てている。そこへよそから同じ年頃のひなが迷い込んでくる。同じ種族の子だ。種族のことを大事にするのであれば、その迷子はちゃんと迎え入れて一緒にそだててやるべきだろう。ところが、ふつうはいきなり殺してしまう。それはどうしてかというと、自分のとってくるえさの量にはかぎりがあるのだから、おう一匹ほかの子を紛れ込ませたら、自分の血のつながっていない子どもをそだてるためにえさの一部が使われて、自分の子ともが食べるぶんが減ってしまう。それは自分の子どもがたくさん丈夫に育つのにはマイナスになる。だから、よそから来たものは、自分の子どもでないことはわかっているから殺してしまうのである。

麻雀をやるときに、強気麻雀と弱気麻雀がある。強気で「相手がリーチをかけていようがないしようがやったえ」というのが強気麻雀である。うまくいったときはぱっと取るかもしれないが、へたをしたら飛んでもないないものを振り込んで大損するかもしれない。
相手を殺すのがいいとか悪いではなく、自分が大損したくないから、相手を殺すようなことはしない。やはり自分でよく考えて、賢く利己的な生きかたをしてほしい。

感想
”共生”とは利己的なせめぎあった結果として収まったとkろが共生に見えるだけ。
発想の転換でした。

人は動物の要素を抱えていますが、それを何重もの被り物/理性などで隠しています。
動物の行動通りにしませんが、根っこには動物の行動原理があるように思います。

動物の行動原理を知っておくことも自分の行動を考える上で役立つのかもしれません。
何故、それをしたいと思うのか、そこには動物の利己的な考え、自分の遺伝子を多く残したいとの動物の生きる目的が根っこにあるからかもしれません。