幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論」佐藤優著 ”悪は人が行う”

2019-01-04 03:33:03 | 本の紹介
・私には人生最大の苦い経験があります。
 「鈴木宗男とくっついて佐藤優が北方領土交渉でおかしなことをしている」そんな事実無根のでまかせ記事が、ある雑誌に出たのです。誰もこんな不正確な内容の記事を相手にしないだろうと、私は何の抗議もせず放っておきました。しかし翌年、この記事をもとに私への大パッシングが起こり、思わぬ事態へと発展しました。どんな偽情報であったとしても、一度広がってしまった情報を取り消すことはほぼ不可能です。その後、私を叩くことのみを目的とする便乗生地が収まることはありませんでした。

・人と人との関係から悪は生まれる。

・とくに神学書というのは悪についての考察を深めた専門知識の宝庫ですから、まさに“究極の虎の巻”です。

・「悪魔」「サタン」「ルシファー」「メフィストフェレス」の悪魔四部作
をまとめた「悪魔の系譜」ラッセル著

・伝統的な3つの悪
1)「故意に他者を苦しめるときに発生する悪」
2)「癌や大暴風雨といった自然の作用から生じる苦しみ」
3)「形而上のもの」(完全性の欠如)

・神にはこの世の悪に対する責任が一切ないのです。「穴あきチーズ」のように善が詰まっていないところに悪がある。

・悪魔は紛れもなく宇宙悪の人格化である(悪魔の系譜)
 ⇒悪魔は紛れもなく悪の人格化である。つまり、「悪は人間によって行われる」ということです。

・猫が隣家のカナリヤを捕まえて食べるのは悪ではありません。猫には善悪の判断ができないからです。残酷かもしれないけれど、それは悪ではない。しかし人間が動物を虐待して殺すというのは、神によって人間が委任された範囲を超える場合なら明らかな悪になる。キリスト教ではそう考えます。

・ラッセルのいう「集合的無意識から生じる超個人的な悪」がはっきり現れているのが沖縄の現状といえます。辺野古に新基地を造ることが、いかに日本の一部の地域に対して痛みを与えているか、個人を超えた悪がなされる背景には、このように人びとが鈍感になったことが関係していると見ることができるのです。

・法則1 悪に無自覚であってはならない
 悪に無自覚な人は、自分でも気づかないうちに人から恨みを買っていたり、憎しみの対象になっていたりすることがある。悪に鈍感であれば、「他者の苦痛」や人の気持ちが理解できなくなる。人間と人間の関係の中から悪は生まれる。

・ラッセル悪の定義
①悪は現実的で具体的である
②悪は人間によって行われる

・法則2 欲望は自力でコントロールせよ
 欲望とカネはスパイラルの関係にある。欲望は際限なく膨らみ、虚勢を張ったり、貢いだり、カネはいくらあっても足りなくなる。資本主義は、過剰な欲望を燃料に生き延びるシステムだ。欲望を自力で調節しないと、悪に食われてしまう。

・「金環蝕」
 首相夫人は選挙で選ばれた公人ではありませんが、日本国の最高権力者である内閣総理大臣を配偶者にするという立場から、実態的には絶大な権力を持つことが、すでに五十年以上も前に描かれているのです。この事件(森友問題)や小説からの教訓は何でしょうか。それは「官僚は政治家に近づきすぎると酷い目に遭うことがある」という身もふたもない事実です。

・チェコの神学者フロマート
「キリスト教を信じる者こそがこの世界を他の誰よりもリアルに理解できる」
「われわれが活動するフィールドは、この世界である」
「信仰のある者はつねに前に見る」

・悪の本質 その1
 悪と罪がとくにはびこるのは、人間が他者を踏みにじるところ、他者の尊厳を傷つけるところ、自分の利己的な目的のために他者を利用するところである。

・悪の本質 その2
 人間同士の関係は個々人の自己中心性によって深く崩壊しているので、神の言葉は私たちのために、神だけでなく隣人をも絶えず新たに発見させてやらなければならない。

・能力は他者のために使え

・「人間こそが悪魔だ」ラッセルの定義

・ユンゲン・モルトマン著「創造における神」

・「他者を助ける機会を与えられながら無視するなら、罪を犯したことになる」というリアリティーをキリスト教徒はつねに持っています。

・悪の三カ条
1)悪と呼ばれるものには、人間の責任がつきまとう。
2)悪は人間の規模を超える。個人的な活動の限界も、個人的な責任の限界も超える。
3)悪をありのままの姿で見る。罪を悪と呼び、虚偽を虚偽と呼び、邪悪を邪悪と呼ぶ。

・受けるよりは与える方が幸い

・私がこうしてたくさんの本を書いたり、いろいろなところで講演したりするのは、もちろん、自分が生きていくための手段ではあるけれども、それだけではないのです。私や家族が生きていくためだけであれば、もう少し仕事を減らしても大丈夫だと思います。けれども、一日平均三時間程度の睡眠で、一年のうち二泊程度の家族旅行ぐらいしか行かず、ひたすら原稿執筆や講演や勉強を続けているのは、私がプロテスタントのキリスト教徒であるからです。

・「受けるよりは与える力が幸いである」(使徒言行録 第20章35節)

・法則3 不当に人を利用してはならない
 他人んをうとましく思い排除しようとするとき、嘘に嘘を重ねたとき、利己的に人間関係を利用したとき、夫婦、家族、友人との義務を守らなかったとき、それらはすべて罪を犯し、悪をなしたことになる。しかも悪は、個人的な責任の限界を超える。

・ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」
 このような時にも、ヨブは神を非難することもなく、罪を犯さなかった。
(ヨブ記 第1章20-22節)

・悪は神の力によって必ず滅ぼされるものである。だから、一人ひとりの人間は、自らがやるべきと思うことをただひたすら貫いていくしかない。

・法則4 正しいことをしても酷い目に遭うことがある
 何不自由なく幸せに暮らしてきた善人が、悪魔のささやきによって地獄の苦しみを味わう。旧約聖書に描かれる「ヨブ記」は、正しい人がひどい目に遭う試練の物語だ。因果関係による善悪が打ち砕かれ、理屈ではどうにもならないことがある。

・映画「人のセックスを笑うな」
 悪魔は言葉たくみに人間に近づきます。気がついたときには身動きできないほどに支配されえいたというケースはよくあるものです。この映画はまさに、一人の人間が悪魔のささやきによって人生をおかしくされる物語です。

・贈り物に関して(マルセル・モース「象世論」)
1)与える義務
2)受け取る義務
3)返礼の義務

・法則5 反応し過ぎてはならない
 命令も要請もせず自在に人を動かす。権力における自らの優位性は手放さない。そんな人物には気をつけた方がいい。これこそ典型的な悪の技法にほかならない。「悪は言葉から生まれる」。すなわち、口から出て来るものが人を汚すのである。

・さらに興味深いのは、「自殺願望の強い人間」をテロの実行犯としてリクルートするのが過激組織の中でいま主流になっているという点です。

・フランスのインテリジェンス機関によると、テロを行う恐れがある、ブラックリストに載せた常時監視対象者は約1万六千人いるといいます。そのうち、37%がキリスト教からの改宗者だったので、テロ対策で注目すべきは、キリスト教からイスラム教に改宗した“青い目”のテロリストである。世の中に対する不満が改宗の理由になっているとガノル教授は指摘します。

・法則6 目に見えるものだけが真実ではない
 人生の基準は必ずしも自分の中にだけあるのではない。不合理と思えることであっても、はっきり目に見えるものでなくても、信用に値するものは存在する。直感の力を信じる場面は必ずある。

・ドストエフスキーの作品世界
「悪自体がそれ自身として存立している」

・チンパンジーは、オスが新しい群れを乗っとると、前のオスとの間にできた子どもは皆殺しにする。ライオンもハーレムをつくるけれど、新しいハーレムを乗っ取ると前のオスの子どもは皆殺しにする。これは種を保存するという点からすると合理的でない。となると、今はどういう仮説が有力かというと、イギリスの進化生物学者で動物行動学者のリチャード・ドーキンスが提唱した「利己的な遺伝子」説です。保存しようとしているのは、実は種ではなく、自らが持っている遺伝子であるという考え方です。人間や動物というのは単なる「器」や「乗り物」であって、遺伝子を少しでも増やしていけばその過程で進化するという仮説です。遺伝子中心の考え方が進化に持ち込まれたと言えるわけです。

・法則7 専門家と称する人物の行動を見続けよ
 自然科学の物の見方の中にも、その時代に流行った思想が反映されるものだ。悪について日々思考をめぐらせていると、専門家や言論人の発言と行動の裏にある「真のねらい」が見えてくる。正義を語る人には気をつけた方がいい。

・「人はパンのみに生くるにあらず」の真相
 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけでいきるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記 第8章3節)

・マタイとマルコとルカの三つの福音書とは別に、「ヨハネによる福音書」がありますが、前三つの福音書とヨハネのは何の相関関係もありません。出て来るエピソードも重複しません。基本的な考え方も異なります。マタイなど三つの福音書は重なる部分もあり、互いに関連するものですから、「共感福音書」(共に観る関係にある福音書)と呼ばれます。

・「古典中の古典」である聖書の読み解きを日常的に続けていくと、「人間と人間の関係から生まれる悪」や「悪の構造」と本書で繰り返し述べてきたものが、より複合的に理解できるようになると思います。

・罪が悪の原因だ。人間は、誰一人として罪から逃れていない。自覚の有無にかかわらず、誰もが悪を行っているのだ。それだから、<わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです>という現実を認めることが重要だ。悪を脱構築するためには、仏の力でも、超越性でも、神でも、その表現はいろいろあるが、人間の外部に目に見えない確実に存在する力があり、その働きかけが不可欠と私は考えている。

感想
悪は人が行う。
悪とは何かを知ることが、悪を減らすことなのでしょう。

聖書から学ぶことが悪を知ることだと知りました。