幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「もうひとつの『心病む母が遺してくれたもの』」夏苅郁子著 ”人の力を信じて”

2019-01-11 01:41:14 | 本の紹介
・精神を病む人が身内にいる、いないにかかわらず、家族の存在は人が生きる支えになると同時に、時には他人より手ごわく、生きる気力を失わせてしまう「魔物」のような存在になり得ます。

・私自身、自分を取るか、母(統合失調症、両親は離婚)を取るかの選択を迫られ、「自分を優先」の生き方を貫きました。

・もう一つお伝えしたいことは、まだ精神科医療とは縁の無い、一般の皆さんへ「精神医療はこのままでよいのだろうか」という問いかけです。
・人が人との出会いによってどれほど変わることができるのか、回復には締切もも限界がないということを実感していただければ、今、変わりたいと願っている方へのエールになるのではないかと期待しています。

・私と引き離された母は(私が三歳の時には肺結核にかかり、二年間隔離病棟に入院しました)、毎日泣いていたらしく、それを見ていた同室の患者さんがキリスト教への入信をすすめ、母は信者となりました。信仰が母の表情を生き生きとさせたのだと思います。

・私が覚えている母の異変は、私が10歳の頃のことでしたが、信仰により安定を得ていても、病の芽はこうした生育環境からすでに始まっていたのだと思います。母はその後、統合失調症という病気になってしまいました。

・78歳で亡くなった母の遺品の中には二つの免許証がありました。看護師免許と栄養士の免許です。どちらも女学校を卒業した後、働きながら取得したものです。母は努力の人でした。晩年に俳句を始めると、緑内障のため満足に字を読めなくなっていたにもかかわらず、何万という季語をテープに録音し、昼夜ずっと眠らずに聞いて覚えてしまいました。

・連続射殺犯の永山則夫も数々の文学作品を残しました。彼がその才能を発揮できるような教育の機会や、たった一人であっても彼を評価する人の存在があれば、不幸な事件は起きずに済んだののかもしれません。これは決して私たちにとって無関係なことではなく、誰もが被害者にも加害者にもなり得るのだと思うのです。

・19歳の少年が、なぜ四人もの人々を無差別に射殺したのか-永山則夫の犯行の動機は祖父母世代にまでさかのぼります。この一家もまた、統合失調症を家族に抱えていました。

・「心の病は、あなたの人生のどこかで出会う病気です」-こらは、私が講演で常に訴えるキャッチフレーズとなりました。

・夫は「健全な」家庭で育った人だったので、私は子どもが生まれてからは「子どもを愛することは、どういうことか」を夫から見よう見まねで教えてもらいました。それは決して「言葉」から学んだのではなく、子どものことぉ心から可愛がる夫の「姿勢」から学んだものでした。

・「家族心理教育から地域精神保健福祉まで」後藤雅博著

・出版後に私はたくさんの方からお手紙をいただきましたが、その中にとても辛い手紙がありました。「私は子どもの時から精神疾患の母と、知的障害の妹の面倒をみて生きてきた。私はそれだけで精一杯で、自分の人生など考える余裕もなかった。父はすっと以前に病死、母は施設に入り、最近、母が病気で亡くなった。母の死を看取ることだけがを生き甲斐にしてきたので、今は一人ぼっちになってしまい、自分は何を目的に生きていけば良いのか分からなくなった。いつか自死してしまいそうな気がする」とありました、便箋10枚を超えるものでしたが、丁寧な文字まで切々と訴えながら、それでも「生きていこう」「幸せになりた」とい叫びが聞こえてくるような内容でした。
私は「よく頑張ってこられましたね。これからは自分のために時間を使ってほしいと思います。自分のための生き甲斐を探す練習を、こらからでも決して遅くはないから、やっていきましょう」と、返事を書きました。
四往復の文通後、お正月となりました。その方がご自宅で自死を遂げていたことを、そして亡骸のそばに私の手紙が置いてあったことを聞かされました。たまたま文通していた私の他に、身よりはなかったそうです。
私は、ギルバート(映画「ギルバート・グレイプ」)もこの手紙の方も、「家族という閉鎖空間・システム」から自力では脱出することができなくなった人だと思いました。

・当時、私は「親を見捨てた一人娘」「父親の期待に応えられない娘」といった罪の意識に苛まれていました。たとえ世間的には「医師」という肩書きは持っていても、実際には自信もプライドも何もなかったのです。こんな私にとって「心の浄化ができたら」-そんな期待から、いつしか内観療法に惹かれ、有る年の大晦日、吉本伊信先生のいる奈良の古いお寺を尋ねました。

・吉本先生は、「内観中の方たちは仏様」と仰って、私たちのことをとても丁寧に扱ってくださいました。驚いたことに、もうお正月だというのに内観をするための人たちでお堂は満員でした。凛とした厳しい空気が漂う中、「世の中には悩んでいる人が本当に多いんだな」と、精神科医である自分の職業が無力に思えて、複雑な心境になりました。

・私が一番慎重にならなければいけないと思っているのが「親の病名をどう伝えるか」です。なぜなら私自身が医学生の時、講義の中で初めて母の病気のことを聞き、大変なショックを受けたからです。30年以上前のことですが、統合失調症は今よりもっと悲惨な病気と考えられていました。私は「自分の未来は完全に終わった」と思いました。

・肝心なのは「子どもへの安全の保障」をすることです。私にとって、押し入れに隠れていた時の恐怖は生涯忘れることはないと思います。親や親戚と一緒だから安全だとは限らないことを常に心にとどめておくために、私はあの八歳の少女(私が以前担当した患者さんには、八歳になる娘さんがいました。お母さんは結婚後に統合失調症となり、入退院の果てに夫と離婚して、実家にこのお嬢さんを身を寄せていました。実家のご両親はすでに年金暮らしで、生計を支えていたのは未だ独身の伯父でした。その子は急に大粒の涙を流しながら「家にいるのが怖い・・・」と、小さな声で話してくれました。それは耳をふさぎたくなるようなおぞましい内容でした。・・・この子は伯父から性的虐待を受けていたのです。・・・私はすぐに児童相談所へ通報し、彼女は施設入所となり、伯父は逮捕されました。そして10年ほど経った或る日、彼女がひょっこり私の診療所を訪ねてきました。すっかり女性らしくなった彼女は、その後定年制高校を卒業して、就職が決まったことを報告に来てくれたのでした)の姿をいつも思い浮かべています。

・今度生まれてくるならば、本に書くような体験をしない平凡な人生を送りたいと思います。
でも、縁あって親子になった母の人生も父の人生も、それぞれが愛おしいと思えるようになりました。「一生懸命に生きたんだね」と、天国で再会できた時には言いたいのです。そして、この両親のもとに生まれてきた自分のことも愛おしいと思えるようになりました。第二、第三の「私」へ-どうか「良き人生」を送られることを心から祈ります。

・人の力を信じて
 私は石川義博先生と出会い、運命を変える「人の力」と「一人の怖さ」をあらためて思い知りました。この世に生まれてきたからには、良い意味での「人の力」となりたいと願います。

感想
どんな家庭に生まれるかはわかりません。
生まれた環境で、どう生きるかが問われているのかもしれません。
著者は母が統合失調症、親が離婚、親戚に預けられたりとか。
精神科医になっても自分のうつ病を直せなくて何度も自殺未遂を。
それでも患者さんに向かわないといけない。

そういったいろいろがあったからこそいまがあるのでしょう。
大変でしたが、その時その時を精一杯生きて来られたからなのでしょう。

人によって傷つきますが、人によって癒され助けられるようです。