幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

Tカード情報令状なく捜査に提供 規約明記せず、当局は保秘 ”せめて令状で提供しないと、悪意を持った活用の可能性も!”

2019-01-21 02:11:22 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00000084-kyodonews-soci 共同1/20(日)
 コンビニやレンタルショップなど、さまざまな店で買い物をするとポイントがたまるポイントカード最大手の一つ「Tカード」を展開する会社が、氏名や電話番号といった会員情報のほか、購入履歴やレンタルビデオのタイトルなどを、裁判所の令状なしに捜査当局へ提供していることが20日、内部資料や捜査関係者への取材で分かった。「T会員規約」に当局への情報提供を明記せず、当局も情報を得たことを本人に知られないよう、保秘を徹底していた。

 Tカードの会員数は日本の人口の半数を超える約6700万人で、提携先は多業種に広がる。

感想
政権に批判的だから、何かその人の行動から問題点を探そうということで、その人の行動調査として調べることも可能だということです。

前川元文部次官が”出会い系バー”に行っていたと発表しました。
税金を使って付けていたのです。
何か問題点を探そうとしていたのでした。

スイカもいつ何時にどの駅で乗り降りしたかがわかります。
ある男性とある女性が一緒に行動していたら、何かあるかもしれないと付けることも可能です。
情報は悪意を持って活用されると怖い社会になります。

「“介護後”うつ」安藤和津著 ”大借金も重なり!”

2019-01-21 02:02:44 | 本の紹介
平成30年3月6日、私は70歳を迎えました。母の介護は、約12年間にわたりました。うつの症状は介護の終盤から始まり、つい1年ほど前まで続きました。
コメンテーターなのに、喋れない。
エッセイストなのに文書が書けない。
主婦なのに、料理が作れない。
人間なのに、笑えない。
そして、自分は誰にも必要とされない存在だと思い込むようになっていました。
それがある日、掃除機をかけながらふと見たお笑い番組の、今では内容も思いだせないちょっとしたコントに大笑いしたのです。アハハと笑いながら、びっくりしました。「あ、私、ひとりなのに笑っている」。胸のあたりにずっと使えていた黒い丸いカタマリが笑いと共に「ポンッ!」と抜けたのです。一生連れ添うしかないと思っていた介護うつは、あっけなく去りました。

・「これまでの私の苦労を、この先生は分かってくれた」
たった1人だけでも、自分の辛さを理解してくれる人がいる。そう実感できた事で、あらためて母の病状を素直に受け入れて、自分自身も片意地張らずに介護に向き合う気持ちになれたのです。

・衝撃だったのは、ヘルパーさんのミスで母が転倒し、救急車で運ばれるという事件でした。ヘルパーさんの存在によって物理的には余裕ができたものの、精神的にはハラハラし通しという、アンバランスな状態を余儀なくされていたのです。幸い、母が亡くなる数年前には、この人に任せておけば第zy9王部という優秀で心ある方たちに恵まれたから良かったものの、それまでは、他人の手に母を預けて100%安心する事は出来ませんでした。

・朝のテレビ番組に出演する時などは、夜中の3時に起きて家族の朝食を準備してから仕事に出掛けます。仕事を終えて帰宅してからも、掃除、洗濯、台所仕事と、座る間もなくひたすら動きっぱなし。母の介護だけでなく、私語とも家事も、すべて自分の力で完璧にこなさなければと、頑張りすぎていたのです。

・次第に、私の心の中からは、喜び、悲しみ、感動・・・ありとあらゆる感情が、次々と消えて行きました。

・夫が初めて監督した「少女」は世界三大映画祭のひとつ、ヴェネチア国際映画祭に出品され、権威ある米国のAFIや、パリ映画祭など世界7か国でグランプリや主演女優賞をいただくという高い評価を得ました。でも国内では単館上映でしたから、収益としては大赤字でした。さらに、知人から詐欺まがいの被害もこうむり、まさに倒産の危機に陥ってしまったのです。娘たちはコツコツ貯めたお年玉貯金を全てカンパ。私も、バッグやジュエリー、皿小鉢にいたるまで金目の物は全て売り払いましたが焼け石に水でした。ヘトヘトに疲れていても、私が働かなければ家計が回って行かない。どんなに体がしんどくても、決して倒れる事は出来ない状況だったのです。家計が火の車だったせいで、ロンドン大学に留学していた桃子の授業料も払えなくなりました。国立大学ですが、海外からの留学生の場合は英国人より授業料がかなり高額です。何度も何度も授業料の督促の書類が送られて来ましたが、支払う事は不可能でした。
「どうしよう? このままでは除籍処分になってしまう」
と追い詰められた時、桃子は果敢にも自力で大学と交渉を始めました。
「父が映画を監督して大借金を抱えてしまったので、期限までに授業料が払えない。なんとか分割払いにしてほしい」
我が娘ながら、かなりの根性だと思います。その甲斐あって、それまで認められていなかった授業料の分割払いが特別に許されました。しかも、さすがに芸術学部ならではの計らいで、
「アーティストのお父様がそういう状況なら仕方ない」
と、授業料を30%免除して頂けたのです。

・そこまで睡眠が不足すると、人間の心はやはり無意識のうちにネガティブになっていくようです。母と最期の1年間を過ごした赤坂のマンションの庭には、大きな木が1本ありました。夜の帳におおわれる頃、その木だけが真黒なシルエットで浮かび上がり、私を誘うのです。
「ここにおいで、楽になるよ」
深夜、家族全員が寝静まると、その誘いは激しくなります。家族がいても、私はひとりぼっち、生きている価値がない、誰もこの辛さは分かってくれない。
「ああ、あれで首を吊ったら楽になれる」という衝動にかられるのです。「死」を考えるという訳ではなく、とにかく、今、自分が置かれている状況からフッと消えてしまいたかったのだと思います。でも、そこで私が思いとどまった一番の理由も家族でした。母は私がいなくなったらどうなるの? 夫は元気で働き盛りなので心配ないにしても、2人の娘たちはまだ学生。やってあげたい事、伝えたい事もまだまだ沢山あります。そしてもうひとつの理由は社会とつながっていた事でした。介護の傍ら、家計を支えるために仕事を続けるのは確かに辛い事でした。でも、「自分が社会から必要とされている」という責任感も私を踏みとどまらせました。1日24時間介護一色の生活で、表に出て仕事をしていなかったら、多分、私はつぶれていたでしょう。

・抗うつ剤に頼りたくなかった。なぜなら、病院で処方された抗うつ剤を服用し始めてから、精神状態がむしろ悪化したように見えた友人が周りに何人もいたからです。
もちろん、相性の良いクリニックやお薬にめぐり合える方もいると思うので、これはあくまでも私個人の決断でした。

・介護の終わりが、介護うつの終わりでないという事を、身をもって知りました。

・凍結されていた母の銀行口座もチェック出来たのですが、なんと残高がほぼ0円に近かったのです。母名義の貸金庫を開けてみても、お気にいりだったルビーやダイヤなどの指輪も見当たりません。おそらく、認知症も併発していた母は、高価な宝石類なども、「これ、あなたにあげるわ」と、気前よく誰かにあげしまったのかもしれません。母の収集して東山魁夷や小倉遊亀の買いが、義姉から結婚祝いにいただいたマリー・ローラサンのリトグラフもどこに消えてしまったのでしょう・・・。
ただでさえ弱っている上に、相続や名義変更に関する煩雑な手続きの数々で、あげくに預金がない、大切な宝石がない、などという信じられない事実が明らかになるたびに心が折れ、私の無力感といつはいっそうひどくなっていきました。

・母の肉筆で書かれたメモや手紙以外はすべて捨てよう。みんなの記憶に残しておくだけでいいのだという心境に達するまでに、実に10年の月日が過ぎていました。

・今では男の夢を追い続けられる夫と伴走できる自分を幸せに思っていますが、あの頃は、私をここまで追い詰めたのは「あなただ」と、夫に敵意の眼を向けていたと思います。

・すり減らない介護と見送り
 ・お互いのベストな終活 元気なうちから話し合いを!
 ・「100%の介護」を目指さない
 ・本人の「好き」を一番に
 ・少しでも自分の時間を!

・体のメンテナンス
 ・目標は1日8000歩のウォーキング
 ・コンニャク温湿布と湯舟でのマッサージ
 ・胸を張る

・気持ちのメンテナンス
 ・花や野菜を育てる癒しのひととき
 ・音楽で青春時代にGO!
 ・ワクワク、ドキドキ、女子会麻雀

・美輪明宏さんから
「あなた何言ってるの? 病気だといってもお母様はまだ御存命なんだし、借金背負ったってダンナも元気で生きているじゃないの。子供たちだって2人もいるんだから、それ以上何が大切?」
 この言葉は、私の生きる上での大きな指針になりました。

・「徹子の部屋」 黒柳徹子さんから
「それ、皆さんにおっしゃったほうが良いわ。アメリカの病院で、病状をお知り合いの方にお話して、皆さんから励ましのエールをいただいた患者さんと、何も言わずに治療だけしていた患者さんとでは生存率が全然違うというデータがあるのよ。それは皆さんにお話なさって、祈って頂いたらよんじゃないの?」
 私はたまたまこのお2人から背中を押して頂く事が出来ましたが、誰にでも、心を聞いて話を聞いてもらえる相手は必要だとつくづく思います。

・平成30年4月、母の十三回忌を迎えました。現在、長女の桃子の元には3歳になった女の子、次女のさくらにも1歳の女の子がいます。孫たちの誕生も、うつ脱出の大きな後押しとなりました。
 母から私へ、私から娘たちへ、そして娘たちから孫たちへ・・・命のバトンが次々に受け継がれていく喜びを実感できる事は、私がこれまで生きて生きた中で、最大のご褒美のような気がします。

感想
あらためて介護は大変だなと思いました。
その甲斐後はほとんどが女性の役目になっています。

介護うつ、介護が終わってもうつが続く。
よく聞きます。
それだけ大変なのだと思います。
一人で頑張らないことなのですが、どうしても負担が大きくなります。

言葉の力は大きいですね。