「幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵」岸見一郎著
・ベルクソンの言葉
「私たちは、いったいどこから来たのか。哲学がもし、本当にこれからの非常時に重大な問題に対して何も答えられないとすれば、<中略>哲学というものは一時間の労苦にも値しないものだと言っても、まあさしつかえないことになります」(心と身体)
・アドラーは目的論を採ることで、何かを経験することが不幸の、そして幸福の原因になるのではないと考える。人は幸福に<なる>のではなく、もともと幸福で<ある>のだ。
・どうすれば幸福になれるのかを考えようとすれば、まず。「幸福とは何か」という問いを立てなければならないだろう。幸福が何かを知らなければ、どうすれば幸福になれるかもわからないからだ。
・「人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」(アドラー)
・運命の人、あるいは邂逅
偶然、あるいは、幸運でしかなかった出会いを、その人にとって後になって意味あるもの、運命的なものにするかしないか自分次第である。
・幸福を阻むように見えることがすぐに思い浮かぶとしても、そのこと自体がすぐさまその人を不幸にするわけではない。反対に、成功したり、幸運に恵まれたからといって幸福になれるというわけでもない。
・三木清
「良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズム((厳格主義)である)(人生ノート)
・三木清
「幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ」
・フランクル
「幸福は目標ではなく、結果にすぎない。幸福は追求するものではない。幸福になろうとすれば失敗するというものである」(それでも人生にイエスと言う)
・アドラー
「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」
・対人関係の中に入っていかなければ誰からも傷つけられることはない。しかし他方、幸福や生きる喜びも、対人関係の中でした得ることはできない。誰とも関わらなければ悩みはないが、その代わりに喜びもない。
・幸福を他の何かのために犠牲にする必要はないし、自分の幸福よりも優先しなければならないものはないことを述べた。
・多くの場合、怒りは他者を支配するために創り出される。
・人は過去に経験した出来事や、まわりから影響を受けるだけの存在ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのである。
・人は一人で生きているのではなく、他の人々の間で生きている。人は、一人では「人間」になることはできない。
・「われわれのまわりには他者が存在する。そして、われわれは他者と結びついて生きている」(アドラー)
・「私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」(アドラー)
・自分で決めることを自分で決める。
・結末が自分にだけ降りかかり、自分しか責任を取れないことは、他の人に代わることができない。自分の課題には自分が取り組む以外になく、他者が代わることはできないのだ。
・他者からどう思われるかを気にしている限り、自分を評価する他者に依存することをやめられない。他者からの評価を待たず、自分で自分の価値を認められること、決められることこそ自立である。
・よいコミュニケーションというのは、コミュニケーションが上手であることではない。この人と一緒にいれば楽しいと思えれば十分だ。
・花を咲かせたいのであれば、水をやらなければならない。花に水をやることが、花を育てる時の責任である。ただ相手から愛されること3を待っているだけでは愛は成立せず、あるいは、傷つくことを恐れて対人関係の中にはっていなければ、幸福になることはできない。相思相愛の恋愛に憧れる人は多いが、恋愛は育んでいくものである。
・エーリッヒ・フロムは「配慮」を愛の一つの要素としてあげている。
「もしある女性が花を好きだといっても、彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、私たちは花にたいする彼女の「愛」を信じることはできないだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない」(愛するということ)
・自分ができることはできる限り自力でする。しかし、他社が援助を求めてくればできるだけの援助をする。皆がそんなふうに思うようになれば、きっと生きやすくなるだろう。
・どう思われるかを気にするのは、当然、どう思われてもいいからではなく、よく思われたいからである。人からよく思われたい、人から嫌われたくないと思う人は、自分がいいたいこと、したいことがあっても、いわないし、しない。自分では行動の指針を決められず、確固たる方向を見捉えた自分の人生を生きることができない。
・自分で人生の決断をしないで、他者、例えば親が喜ぶ人生を選んだとすれば、自分の人生なのに他者の人生を生きるのに等しくなる。そうなってしまえば、自分の人生を生きないという、現実から遊離した状態で人生を生きるという悲惨なことになってしまう。
・人間には「したいこと」、「するべきこと」、「できること」の三つしかない。このうち、できるのは「できること」だけである。
・不完全である勇気
・「自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」
「勇気」には二つの意味がある。
・課題に取り組む勇気
・対人関係に入っていく勇気
・自分に価値があると思えるためには、二つの方法がある。
・自分の短所を長所に置き換えることである。
・私の行動が共同体にとって有益である時だけだ。
・人間をものと見る誤り
・人を何かものを生産する機会のように見なすことだ。
・人間に自由意志を認めない考え方である。
・信頼するとは目下起こっていることや、これから起きることについて道なことがある時、その知られていないことを主観で補うことである。
・誰でも何でもできる
「困難は克服できない障害ではなく、それに立ち向かい征服する課題である」
・私が長くカウンセリングをしてきた中で、どんな相談であれ来談者に伝えなけれならないのは、未来を考えずに、「今ここ」を生きることである。
・幸福は幸運とは違うということ、人は何かの出来事によって幸福になるのでも、不幸になるのでもないということ。すでに人は今ここで幸福である。
振り回されない心
感想;
幸福を得るには考え方と行動を変えることのようです。
今幸福に感じている人は、今の考え方と行動が良いのでしょう。
全ての悩みは人間関係である。
その距離感が、人間関係が苦手な人は難しいのでしょう。
やまあらしのジレンマという言葉があります。
失敗しながら人間関係を学んでいくのでしょう。
https://www.men-joy.jp/archives/379855
”やまあらしのジレンマ”という言葉があります。
ヤマアラシのジレンマとは、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)の寓話から生まれた言葉です。
その寓話とは……
冷たい冬のある日、ヤマアラシの一群が、 お互いの体温で凍えることを防ぐために、ピッタリとくっつきあいました。けれども、お互いの針のような毛があたって痛く、また離れます。それを繰り返しているうちに、ヤマアラシたちは適当な距離を見つけていきました。
この寓話から、他者との適度な心理的距離を探ろうとする心理的な葛藤を表現する言葉として、“ヤマアラシのジレンマ”という言葉が生まれたのです。