・大蔵省の20人の新人の訓示(一人ひとりの名前を憶えていた)
「諸君の上司にはバカがいるかもしれない。もしバカがいたら、バカなんだから諸君のアイデアを理解できないだろう」「そんな時は迷わなくていい。遠慮なく大臣室に駆け込んでこい」
「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」
・日米繊維交渉は大蔵大臣出身で前々任の大平正芳、知米派で経済通の前任の宮澤喜一ですら解決できなかった。これまでの戦術に問題があると言われても仕方がなかった。
・「きちんと仕事をしろ、そうすれば客観的に評価もしてやる。数字をあげてこい。その分、数字で報いてやる」
・ある陳情者が部屋に入ってくるなり顔を見るだけでこうだ。
「おお君か。元気でやってるか。君なら、あれはやっておいた。安心しろ、誰々にも言っておいた」「あれはダメだ。今年は諦めろ。予算の割り振りは終わった。その代わりに来年やる。大丈夫だ」相手が何か言う前に、だ。
・意外かもしれないが角栄は聞き上手でもある。分からないことは知ったふりをせず「分からない」と正直に言う。実はこれが物事を理解する最も早道であることを角栄は知っていた。国際問題など利害関係者が多く複雑な話は時間をかけてじっくり聞く。きちんと理解したうえで判断を下した。
・小長(角栄が通産大臣と首相時代に秘書、補佐官を務めた)は大臣秘書に決まった時、前任者に教えを乞いに出向いている。前任者といっても宮沢喜一の秘書官でない。角栄が大蔵大臣時代に秘書官を務めていた大蔵省の高橋元だ。
「自分は通産大臣というポストに仕えるのではない、田中角栄という人物に仕えるのだ。それなら宮沢の補佐官だった通産省の担当者に引継ぎを打ち合わせも何の意味もない。田中角栄というのがどんな人物なのか、何をしようとしているのか、そのために自分が何ができるのか。それを知らなければならい」そう考えたという。
高橋は後に大蔵事務次官や公正取引委員会委員長を務めることになる大物官僚で、すでにこの時、能吏との評判は高かった。
「とにかく忙しい人ですよ、あの人はついていくだけでも大変です。まずついていくこと。それを誠実にやることが大切です」
・角栄に「今日の新聞に載っていた、あれはどういう意味か」と問われたのだ。
内容はたいしたことではない。今では思い出せないほどの小さなニュースだ。
しかし、角栄がこの時に言った「新聞」とは日刊工業新聞だった。小長は自宅では朝日新聞と日本経済新聞しかとっていなかった。角栄は専門紙を含め全紙とっていた。午前七時十五分に陳情が始まる前に食事をとりながら専門紙も含めて主要な新聞を隅から隅まで猛スピードで読んでいた。
・「この間の日米貿易経済合同委員会では、君たちの言うように俺はやった。君たちの振り付け通りやった」
「はい、そうです。大臣、ありがとうございます」と次官の両角。
「しかし、君たちの言う通りにやったが、結果は悪くなった。米国は日本を敵国扱いするエネミー・トレーディング・アクト、つまり対敵通商法を発動しようとしている。これをやられれば問答無用。日本はひとたまりもない。日本と米国の間にしこりも残る。さあ、ここからだ。どうする」角栄が畳みかける。
「対案を考えましょう、大臣、案をつくります」事務方が応じた。
勘のいい角栄だ。「ここが切り替え時」と感じたのだろう。
そして出てきたのが、日本から米国への繊維製品の輸出を規制し、その自主規制により繊維業界が失う「得べかりし利益」分を老朽化した織機を買い上げることで補償するという案だった。
2000億円が必要だった。当時の一般会計が4000億円。
「よし、分かった。小長君、電話を(佐藤栄作)総理につなげ」
この角栄の一言で三年にわたった日米繊維交渉が終わった。
・沖縄の返還と引き換えに日本が繊維製品の輸出を規制する日米首脳間の「密約」のことだ。
佐藤栄作は日本の自主規制を迫ってきた大統領のリチャード・ニクソンに対し「誠実に約束し、問題の解決に前向きに検討する」と述べていたのだ。ポイントは通訳がこの曖昧な日本語をどう訳したのか、ということだ。諸説ある。しかし最も有力なのは「I will do my best」だ。だとすると米国は当然、日本が自主規制を「やる」と受け取るだろう。「前向きに検討」とは役人用語で「一応、全力を尽くすが、本当はやらない。またはできない」というのが正確だ。
佐藤は「やらない」と言ったつもりだった。
・小長はつくづく思う。「田中角栄はすごい政治家だった。少なくとも日米繊維交渉は田中さんの辣腕がなければ解決は難しかった。沖縄返還というあまりに大きな国益を失っていたかもしれない」
・噴出する不満と怒りに背中を押される格好で、帝人の大屋晋三ら日本繊維産業連盟の幹部が通産省に乗り込んできた。
「大臣いるか」
「断固、抗議する」
憤る繊維業界幹部たちがアポイントメントもなく突然、通産省に詰めかけた。
通常なら「大臣いるか」と言われても「まず局長がお話を伺います。どんなご用件ですか」と、いったん事務方に回すところだ。日本繊維産業の幹部たちにガス抜きをさせ、頭を冷やす時間を稼ぐためだ。相手は怒り狂っているのだ。冷静になるまで時間を置くのは常套手段だ。
だから小長も「田中大臣。まず繊維局長に通しますか」と尋ねた。
ところが角栄は即答した。
「いや、これは事務的な話ではない。政治の話だ。その必要なない」
そしてこう続けた。
「俺が会う。そのまま大臣室に通せ」
通産大臣の田中角栄は逃げも隠れもしなかった。
・・・
繊維業界の幹部たち相手に懸命に押し返す。到底、折り合うはずはなかった。堂々巡りが続いた。ただ、小長がしばらく遠くから黙って見ていると面白いことに気がついた。角栄は自然と相手に気取られないように聞き役に回っている。言わせているのだった。
相手はとにかく頭にきている。言いたいことを言う。止まらない。自分で自分の言葉に興奮してくる。それを角栄はじっくり聞く。
「言いたいことはよくわかった」
そう言って、いったん受け止める。
そのうえで「君たちが言うことはもっともだ。けれども我々には我々の事情がある。すまないがそのまま聞くわけにはいかない」とやんわり押し返し、国としての立場を説明するのだった。
そんなやり取りが三十分ほど続いた。結局、話し合いは物別れに終わり、怒ったまま日本繊維産業連盟の幹部たちは出て行った。カンカンだった。
「何とも大臣というのは大変な仕事だ」。
一部始終を見ていた小長はそう思ったという。
ただ、日本繊維産業連盟の幹部たちが出て行った後、角栄は小声で小長にこう言った。
「これで業界も納得するはずだ」
「あの連中は建前で来ている、『国にいいように事を決められて、このまま拳を下すわけにはいかない』ということで業界を背負ってきている。だから『大臣に会った。大臣室にで田中角栄に会ってあれを言い、これを言った。猛烈に抗議し注文をつけた』ということで収まるはずだ」
「言葉は激しいが連中の目は笑っていたぞ。これで解決だ。心配するな」
角栄の言葉通り、繊維業界は次第に収まっていった。
・フメ(角栄の母)は角栄が政治家になってからも叱った:
「いい気になるな。でけえことを言うな」と言い続けてきた。
角栄は、小長に「お袋には頭が上がらないんだ」と話していたという。
・角栄はほぼ毎晩、三つの宴席をこなした。時間はそれぞれどんなに長くても一時間が限度、時間がくるとさっと切り上げる。オーバーすることはほとんどなかった。
人を待たせるのも嫌いだった。時間をとにかく大切にする人間で娘の真紀子へのプレゼントも時計だった。
「必ず予定の時刻の10分前には着いていたい」のだった。
・角栄は10時過ぎには寝る。ところが午前2時になるとむくっと起き上がり、勉強を始めるのだった。役所が用意した資料を徹底的に読み込み、事実関係を把握し、データを頭に入れていく。時には関連図書もしっかり読み込むのだった。40年あまりの議員生活で33本という前人未到の数の議員立法を成立させた裏にはこうした地道な努力があった。
・なかでも秀逸だったのは「低層建築制限」という政策発想の転換をうちだしたことだ。人口が集中する東京や大阪などの都市部では低い建物にこそ制限をかけるという発想で、低層建築を制限し、高層化のために容積率を設定するのである。そして小さな敷地に蝋燭のようなペンシルビルが林立しないように最低敷地面積を設けることを提案。建築の高層化により都市空間を有効利用し、余裕ができた敷地を緑地や公園にするとした。まさにそれは『日本列島改造論』から30年後に出現する六本木ヒルズなど高層建築の発想であった。
・特に宴席だ。いずれの席でも角栄自身が酒を飲むことはほとんどなかった。自分は飲まずに相手につぐ。徳利を持ち、一人ひとり客についで回るのだ。
小長に言わせれば「宴席というのは角栄にとって真剣勝負の情報収集の場」だった。生きた耳学問だ。大臣自らが徳利を持ち、自分の席まで回ってきてくれれば、いかに百戦錬磨の経済人たちといえども恐縮する。嘘だってつけない。ついついしゃべりすぎてしまう。・・・
小長が「えっ? そんな話があったのか」と思うような水面下の合併話や買収案件なども何となく聞こえてきた。そんな時は聞こえてきた内容を記憶しておき、宴席が終わるとすぐさま通産省に電話を入れた。小長が「田中さんと業界の幹部が、宴席でこんな話をしていたけれど、知っていますが」と担当の局の幹部に話すと「そうなの? それは知らなかった。明日にでも確認してみるよ。助かった」とありがたがられることもしばしばだった。
もちろん角栄は小長の動きを百も承知だった。知っていて、わざと小長に聞かせてくれているのだった。
・真っ先に切り込んだのが日中国交正常化だった。
「中国では毛沢東や周恩来ら革命第一世代が実権を握っている。彼らの目の黒いうちにこの問題を片付けたい。日本企業でも第二、第三世代になると社内の権力割れて大変だろう。戦後補償の問題もある。だから第一世代が元気なうちに決着を付けてしまわなければならない」
・1972年8月31日、9月1日とハワイで米ニクソン大統領と首脳会談を実施、そで「訪中する」と米国に仁義を切ると、一か月のたたないうちに角栄は北京に飛び、共同声明の調印にこぎ着けてしまったのだ。この早業に日本の国民はもちろんだが、米国も驚いた。角栄が中国で首相の周恩来などトップと会談することは事前の説明で分かってはいた。角栄も仁義は切っていた。しかし、本当に共同声明まで持っていくとは・・・。
ワシントンは「予定通り」と表面上は平静を装いながら心中穏やかでなかった。
・滞在中は毎朝、必ず味噌汁が出る。しかも、その味噌汁に使われていた味噌が念入りだ。人が他県柏崎市の「西牧」という古いみそ屋のもの、つまり角栄が毎日自宅で使っているものと同じ味噌を使っていたのだ。米も同じ越後のコシヒカリ。さすがの角栄も「やるねえ」と驚いていたという。角栄が訪中する前に中国側が早坂茂三のところにやってきて、田中の趣味嗜好のいっさいを聞きとっていったのだという。
・「良い食事をとらないと良い仕事はできない」
中国の歓待はこうした角栄の性格を見事に見抜いていた。
・雲行きが怪しくなったのは角栄の挨拶からだった。
「日中関係は遺憾ながら、不幸な経過を辿ってきた。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである」
ここで会場が凍った。
角栄がしゃべり、通訳が訳し、会場が拍手する。そしてまた角栄がしゃべる-。このリズムがこの時、ピタリと止まった。角栄の挨拶のこのセンテンスの時だけ、通訳が訳した後の拍手がなかった。会場は不気味な静寂に包まれてしまったのだ。・・・
通訳が軽かった。
「添了麻煩」
通訳は「迷惑」をこう訳したのだった。
誤って女性のスカートに水でもひっかけてしまった時の「あっ、ゴメンなさい」程度の謝罪の言葉だった。この言葉を通訳は使ったのだ。
日本と中国が歴史的な和解を目指す会談の晩餐会で「これまでのことは『あっゴメンなさい』では通らない。事態は一気にこじれていった。
そして翌日の周恩来との会談が始まった時には前日の友好ムードは吹き飛んでしまっていた。周恩来は激しく詰め寄ってきた。
「『添了麻煩』とはどういうことか」
そしてカードを切ってきた。
「何年何月、何日、日本軍の誰それが師団長が率いる舞台がどこで中国人を何人犠牲にした」
具体的な数字を列挙しながら日本側を追い詰めてきた。・・・
交渉に立ち会った通訳などの証言によるとこの間、一時間半。角栄は守勢に回り、周恩来の言葉を聞くしかなかった。
「復交三原則」を提示していたが、これを一切、譲ろうとしなかった。
1) 中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府である
2) 台湾は中国の領土の不可分の一部である
3) 日華平和条約は不法であり、無効である
台湾の帰属問題は全面的に承認しないが、「理解し、尊重する」。
そして日華平和条約は「不法」とせずに「終了」とする作戦だ。日本と中国との関係が正常化した結果、台湾との間に結んだ日華平和条約は失効したと認識するというわけだ。
もちろん台湾側が激怒するだろう。けれど形式上、日本は台湾と国交を結んでいた過去を否定する必要はなくなる。妙案だった。台湾に対しては礼を失するが、中国の意向を汲む形はとれるし日本の立場も守れる。
これで中国側の何とか納得、ようやく矛を収める。
・1971年に米国が抱える対日貿易赤字額は過去最大の30億ドルまで達していた。そろそろ米国も限界だった。米国はこのハワイでの日米首脳会談で何とか日本に輸入を拡大させ、貿易不均衡を是正することを求めていたのだった。
ここは角栄も見抜いていた。
「ニクソンもゼロ回答では帰れまい」
ハワイでの日米首脳会談で角栄は米国の要求にズバリ応えた。「三年のうちに貿易不均衡を是正する」とニクソンに名言、日本は米国から12億ドル分の特別輸入を約束したのだった。
のちのロッキード事件の火ダネとなる民間航空機の輸入はこの時決まった。日本側は3億2千万ドルの米国製民間航空機の買取りを決める。そして同時に決まったのが米国産濃縮ウランの買い取りだった。
この時、通産省の想定を超えたのは民間航空機よりも濃縮ウランのほうだった。・・・
数量がべらぼうだった。1万トンSWU。仮に原発の基数がふえない前提なら10年分程度の燃料を契約してしまったことになる。
これにはさすがに電力業界も驚いた。
・「おい、小長君、今日は誰かの葬式がなったかね」
ギクッとした、さすがにコンピューター付きブルトーザーだ。確かにその日、角栄の関係者の葬儀があった。
「はい、あります。確かにあります。しかし、今日は産業構造審議会です。こちらの方がお葬式より重要です」
こう答えると角栄の顔色がほんのわずかだったが変わった。そして感情を抑えながら、静かな声でゆっくりとこう言ったのだ。
「これが葬式でなくて結婚式だったなら君の判断は正しい。俺も何も言わない。新郎新婦にまた日を改めて会いにいき祝意を伝えればそれで問題はない」
「だが、葬式は別だ。亡くなった人との最後の別れの機会だ。二度目はない。今日、審議会があってダメなら、なぜ昨日、お通夜に日程を組まなかったのか」
・「よしっ、分かった。どの程度か量は言えないが、将来濃縮ウランの加工をフランスに委託する用意がある」
(この言葉が米国の虎の尾を踏んだのでは・・・) 小長は今、そう思う。
・「日本は石油資源の99%を輸入している。しかもその80%を中東から輸入している。もし米国が言う通りにして中東から日本向けに原油の輸入がストップしたら、それを米国が肩代わりしてくれますか」
キッシンジャーが「うっ」という顔をした。一瞬黙る。
すかさず角栄が言う。
「そうでしょう。あなたがおっしゃっていることは、そういうことなのです」
そのうえで角栄はこう言った。
「日本はこの窮地を脱するため、アラブにある程度、歩み寄った対応をせざると得ない。日本の立場を説明するためあらぶ主要国に特使を派遣する準備を進めている」
何よりも「国際紛争の武力による解決を容認しないといのが日本外交の基本的態度」という姿勢が中東諸国の共感を呼んだ。OAPECが日本を「友好国」と認めたのだ。日本に必要量の石油が供給されることが決まり危機は去った。ここでもまた角栄の舞台回しが国難を救ったのだった。
感想;
田中角栄氏の評価は分かれるのではと思います。
ただ、大きな実績を残されたことは事実です。
濃縮ウランを大量に買ったので、その後原発が増えてしまったのかもしれません。
それは先を見ることの難しさでもあります。
福島第一原発がリスク高いことはアセスメントでもわかっていたことで、その後の東電の経営層がそのリスクを正しく理解していると変わったでしょう。
人の話をよく聴く。
データを頭に入れて考え話をする。
思い付きでパーフォーマンスをされる首相とは雲泥の差のように思いました。
「諸君の上司にはバカがいるかもしれない。もしバカがいたら、バカなんだから諸君のアイデアを理解できないだろう」「そんな時は迷わなくていい。遠慮なく大臣室に駆け込んでこい」
「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」
・日米繊維交渉は大蔵大臣出身で前々任の大平正芳、知米派で経済通の前任の宮澤喜一ですら解決できなかった。これまでの戦術に問題があると言われても仕方がなかった。
・「きちんと仕事をしろ、そうすれば客観的に評価もしてやる。数字をあげてこい。その分、数字で報いてやる」
・ある陳情者が部屋に入ってくるなり顔を見るだけでこうだ。
「おお君か。元気でやってるか。君なら、あれはやっておいた。安心しろ、誰々にも言っておいた」「あれはダメだ。今年は諦めろ。予算の割り振りは終わった。その代わりに来年やる。大丈夫だ」相手が何か言う前に、だ。
・意外かもしれないが角栄は聞き上手でもある。分からないことは知ったふりをせず「分からない」と正直に言う。実はこれが物事を理解する最も早道であることを角栄は知っていた。国際問題など利害関係者が多く複雑な話は時間をかけてじっくり聞く。きちんと理解したうえで判断を下した。
・小長(角栄が通産大臣と首相時代に秘書、補佐官を務めた)は大臣秘書に決まった時、前任者に教えを乞いに出向いている。前任者といっても宮沢喜一の秘書官でない。角栄が大蔵大臣時代に秘書官を務めていた大蔵省の高橋元だ。
「自分は通産大臣というポストに仕えるのではない、田中角栄という人物に仕えるのだ。それなら宮沢の補佐官だった通産省の担当者に引継ぎを打ち合わせも何の意味もない。田中角栄というのがどんな人物なのか、何をしようとしているのか、そのために自分が何ができるのか。それを知らなければならい」そう考えたという。
高橋は後に大蔵事務次官や公正取引委員会委員長を務めることになる大物官僚で、すでにこの時、能吏との評判は高かった。
「とにかく忙しい人ですよ、あの人はついていくだけでも大変です。まずついていくこと。それを誠実にやることが大切です」
・角栄に「今日の新聞に載っていた、あれはどういう意味か」と問われたのだ。
内容はたいしたことではない。今では思い出せないほどの小さなニュースだ。
しかし、角栄がこの時に言った「新聞」とは日刊工業新聞だった。小長は自宅では朝日新聞と日本経済新聞しかとっていなかった。角栄は専門紙を含め全紙とっていた。午前七時十五分に陳情が始まる前に食事をとりながら専門紙も含めて主要な新聞を隅から隅まで猛スピードで読んでいた。
・「この間の日米貿易経済合同委員会では、君たちの言うように俺はやった。君たちの振り付け通りやった」
「はい、そうです。大臣、ありがとうございます」と次官の両角。
「しかし、君たちの言う通りにやったが、結果は悪くなった。米国は日本を敵国扱いするエネミー・トレーディング・アクト、つまり対敵通商法を発動しようとしている。これをやられれば問答無用。日本はひとたまりもない。日本と米国の間にしこりも残る。さあ、ここからだ。どうする」角栄が畳みかける。
「対案を考えましょう、大臣、案をつくります」事務方が応じた。
勘のいい角栄だ。「ここが切り替え時」と感じたのだろう。
そして出てきたのが、日本から米国への繊維製品の輸出を規制し、その自主規制により繊維業界が失う「得べかりし利益」分を老朽化した織機を買い上げることで補償するという案だった。
2000億円が必要だった。当時の一般会計が4000億円。
「よし、分かった。小長君、電話を(佐藤栄作)総理につなげ」
この角栄の一言で三年にわたった日米繊維交渉が終わった。
・沖縄の返還と引き換えに日本が繊維製品の輸出を規制する日米首脳間の「密約」のことだ。
佐藤栄作は日本の自主規制を迫ってきた大統領のリチャード・ニクソンに対し「誠実に約束し、問題の解決に前向きに検討する」と述べていたのだ。ポイントは通訳がこの曖昧な日本語をどう訳したのか、ということだ。諸説ある。しかし最も有力なのは「I will do my best」だ。だとすると米国は当然、日本が自主規制を「やる」と受け取るだろう。「前向きに検討」とは役人用語で「一応、全力を尽くすが、本当はやらない。またはできない」というのが正確だ。
佐藤は「やらない」と言ったつもりだった。
・小長はつくづく思う。「田中角栄はすごい政治家だった。少なくとも日米繊維交渉は田中さんの辣腕がなければ解決は難しかった。沖縄返還というあまりに大きな国益を失っていたかもしれない」
・噴出する不満と怒りに背中を押される格好で、帝人の大屋晋三ら日本繊維産業連盟の幹部が通産省に乗り込んできた。
「大臣いるか」
「断固、抗議する」
憤る繊維業界幹部たちがアポイントメントもなく突然、通産省に詰めかけた。
通常なら「大臣いるか」と言われても「まず局長がお話を伺います。どんなご用件ですか」と、いったん事務方に回すところだ。日本繊維産業の幹部たちにガス抜きをさせ、頭を冷やす時間を稼ぐためだ。相手は怒り狂っているのだ。冷静になるまで時間を置くのは常套手段だ。
だから小長も「田中大臣。まず繊維局長に通しますか」と尋ねた。
ところが角栄は即答した。
「いや、これは事務的な話ではない。政治の話だ。その必要なない」
そしてこう続けた。
「俺が会う。そのまま大臣室に通せ」
通産大臣の田中角栄は逃げも隠れもしなかった。
・・・
繊維業界の幹部たち相手に懸命に押し返す。到底、折り合うはずはなかった。堂々巡りが続いた。ただ、小長がしばらく遠くから黙って見ていると面白いことに気がついた。角栄は自然と相手に気取られないように聞き役に回っている。言わせているのだった。
相手はとにかく頭にきている。言いたいことを言う。止まらない。自分で自分の言葉に興奮してくる。それを角栄はじっくり聞く。
「言いたいことはよくわかった」
そう言って、いったん受け止める。
そのうえで「君たちが言うことはもっともだ。けれども我々には我々の事情がある。すまないがそのまま聞くわけにはいかない」とやんわり押し返し、国としての立場を説明するのだった。
そんなやり取りが三十分ほど続いた。結局、話し合いは物別れに終わり、怒ったまま日本繊維産業連盟の幹部たちは出て行った。カンカンだった。
「何とも大臣というのは大変な仕事だ」。
一部始終を見ていた小長はそう思ったという。
ただ、日本繊維産業連盟の幹部たちが出て行った後、角栄は小声で小長にこう言った。
「これで業界も納得するはずだ」
「あの連中は建前で来ている、『国にいいように事を決められて、このまま拳を下すわけにはいかない』ということで業界を背負ってきている。だから『大臣に会った。大臣室にで田中角栄に会ってあれを言い、これを言った。猛烈に抗議し注文をつけた』ということで収まるはずだ」
「言葉は激しいが連中の目は笑っていたぞ。これで解決だ。心配するな」
角栄の言葉通り、繊維業界は次第に収まっていった。
・フメ(角栄の母)は角栄が政治家になってからも叱った:
「いい気になるな。でけえことを言うな」と言い続けてきた。
角栄は、小長に「お袋には頭が上がらないんだ」と話していたという。
・角栄はほぼ毎晩、三つの宴席をこなした。時間はそれぞれどんなに長くても一時間が限度、時間がくるとさっと切り上げる。オーバーすることはほとんどなかった。
人を待たせるのも嫌いだった。時間をとにかく大切にする人間で娘の真紀子へのプレゼントも時計だった。
「必ず予定の時刻の10分前には着いていたい」のだった。
・角栄は10時過ぎには寝る。ところが午前2時になるとむくっと起き上がり、勉強を始めるのだった。役所が用意した資料を徹底的に読み込み、事実関係を把握し、データを頭に入れていく。時には関連図書もしっかり読み込むのだった。40年あまりの議員生活で33本という前人未到の数の議員立法を成立させた裏にはこうした地道な努力があった。
・なかでも秀逸だったのは「低層建築制限」という政策発想の転換をうちだしたことだ。人口が集中する東京や大阪などの都市部では低い建物にこそ制限をかけるという発想で、低層建築を制限し、高層化のために容積率を設定するのである。そして小さな敷地に蝋燭のようなペンシルビルが林立しないように最低敷地面積を設けることを提案。建築の高層化により都市空間を有効利用し、余裕ができた敷地を緑地や公園にするとした。まさにそれは『日本列島改造論』から30年後に出現する六本木ヒルズなど高層建築の発想であった。
・特に宴席だ。いずれの席でも角栄自身が酒を飲むことはほとんどなかった。自分は飲まずに相手につぐ。徳利を持ち、一人ひとり客についで回るのだ。
小長に言わせれば「宴席というのは角栄にとって真剣勝負の情報収集の場」だった。生きた耳学問だ。大臣自らが徳利を持ち、自分の席まで回ってきてくれれば、いかに百戦錬磨の経済人たちといえども恐縮する。嘘だってつけない。ついついしゃべりすぎてしまう。・・・
小長が「えっ? そんな話があったのか」と思うような水面下の合併話や買収案件なども何となく聞こえてきた。そんな時は聞こえてきた内容を記憶しておき、宴席が終わるとすぐさま通産省に電話を入れた。小長が「田中さんと業界の幹部が、宴席でこんな話をしていたけれど、知っていますが」と担当の局の幹部に話すと「そうなの? それは知らなかった。明日にでも確認してみるよ。助かった」とありがたがられることもしばしばだった。
もちろん角栄は小長の動きを百も承知だった。知っていて、わざと小長に聞かせてくれているのだった。
・真っ先に切り込んだのが日中国交正常化だった。
「中国では毛沢東や周恩来ら革命第一世代が実権を握っている。彼らの目の黒いうちにこの問題を片付けたい。日本企業でも第二、第三世代になると社内の権力割れて大変だろう。戦後補償の問題もある。だから第一世代が元気なうちに決着を付けてしまわなければならない」
・1972年8月31日、9月1日とハワイで米ニクソン大統領と首脳会談を実施、そで「訪中する」と米国に仁義を切ると、一か月のたたないうちに角栄は北京に飛び、共同声明の調印にこぎ着けてしまったのだ。この早業に日本の国民はもちろんだが、米国も驚いた。角栄が中国で首相の周恩来などトップと会談することは事前の説明で分かってはいた。角栄も仁義は切っていた。しかし、本当に共同声明まで持っていくとは・・・。
ワシントンは「予定通り」と表面上は平静を装いながら心中穏やかでなかった。
・滞在中は毎朝、必ず味噌汁が出る。しかも、その味噌汁に使われていた味噌が念入りだ。人が他県柏崎市の「西牧」という古いみそ屋のもの、つまり角栄が毎日自宅で使っているものと同じ味噌を使っていたのだ。米も同じ越後のコシヒカリ。さすがの角栄も「やるねえ」と驚いていたという。角栄が訪中する前に中国側が早坂茂三のところにやってきて、田中の趣味嗜好のいっさいを聞きとっていったのだという。
・「良い食事をとらないと良い仕事はできない」
中国の歓待はこうした角栄の性格を見事に見抜いていた。
・雲行きが怪しくなったのは角栄の挨拶からだった。
「日中関係は遺憾ながら、不幸な経過を辿ってきた。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである」
ここで会場が凍った。
角栄がしゃべり、通訳が訳し、会場が拍手する。そしてまた角栄がしゃべる-。このリズムがこの時、ピタリと止まった。角栄の挨拶のこのセンテンスの時だけ、通訳が訳した後の拍手がなかった。会場は不気味な静寂に包まれてしまったのだ。・・・
通訳が軽かった。
「添了麻煩」
通訳は「迷惑」をこう訳したのだった。
誤って女性のスカートに水でもひっかけてしまった時の「あっ、ゴメンなさい」程度の謝罪の言葉だった。この言葉を通訳は使ったのだ。
日本と中国が歴史的な和解を目指す会談の晩餐会で「これまでのことは『あっゴメンなさい』では通らない。事態は一気にこじれていった。
そして翌日の周恩来との会談が始まった時には前日の友好ムードは吹き飛んでしまっていた。周恩来は激しく詰め寄ってきた。
「『添了麻煩』とはどういうことか」
そしてカードを切ってきた。
「何年何月、何日、日本軍の誰それが師団長が率いる舞台がどこで中国人を何人犠牲にした」
具体的な数字を列挙しながら日本側を追い詰めてきた。・・・
交渉に立ち会った通訳などの証言によるとこの間、一時間半。角栄は守勢に回り、周恩来の言葉を聞くしかなかった。
「復交三原則」を提示していたが、これを一切、譲ろうとしなかった。
1) 中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府である
2) 台湾は中国の領土の不可分の一部である
3) 日華平和条約は不法であり、無効である
台湾の帰属問題は全面的に承認しないが、「理解し、尊重する」。
そして日華平和条約は「不法」とせずに「終了」とする作戦だ。日本と中国との関係が正常化した結果、台湾との間に結んだ日華平和条約は失効したと認識するというわけだ。
もちろん台湾側が激怒するだろう。けれど形式上、日本は台湾と国交を結んでいた過去を否定する必要はなくなる。妙案だった。台湾に対しては礼を失するが、中国の意向を汲む形はとれるし日本の立場も守れる。
これで中国側の何とか納得、ようやく矛を収める。
・1971年に米国が抱える対日貿易赤字額は過去最大の30億ドルまで達していた。そろそろ米国も限界だった。米国はこのハワイでの日米首脳会談で何とか日本に輸入を拡大させ、貿易不均衡を是正することを求めていたのだった。
ここは角栄も見抜いていた。
「ニクソンもゼロ回答では帰れまい」
ハワイでの日米首脳会談で角栄は米国の要求にズバリ応えた。「三年のうちに貿易不均衡を是正する」とニクソンに名言、日本は米国から12億ドル分の特別輸入を約束したのだった。
のちのロッキード事件の火ダネとなる民間航空機の輸入はこの時決まった。日本側は3億2千万ドルの米国製民間航空機の買取りを決める。そして同時に決まったのが米国産濃縮ウランの買い取りだった。
この時、通産省の想定を超えたのは民間航空機よりも濃縮ウランのほうだった。・・・
数量がべらぼうだった。1万トンSWU。仮に原発の基数がふえない前提なら10年分程度の燃料を契約してしまったことになる。
これにはさすがに電力業界も驚いた。
・「おい、小長君、今日は誰かの葬式がなったかね」
ギクッとした、さすがにコンピューター付きブルトーザーだ。確かにその日、角栄の関係者の葬儀があった。
「はい、あります。確かにあります。しかし、今日は産業構造審議会です。こちらの方がお葬式より重要です」
こう答えると角栄の顔色がほんのわずかだったが変わった。そして感情を抑えながら、静かな声でゆっくりとこう言ったのだ。
「これが葬式でなくて結婚式だったなら君の判断は正しい。俺も何も言わない。新郎新婦にまた日を改めて会いにいき祝意を伝えればそれで問題はない」
「だが、葬式は別だ。亡くなった人との最後の別れの機会だ。二度目はない。今日、審議会があってダメなら、なぜ昨日、お通夜に日程を組まなかったのか」
・「よしっ、分かった。どの程度か量は言えないが、将来濃縮ウランの加工をフランスに委託する用意がある」
(この言葉が米国の虎の尾を踏んだのでは・・・) 小長は今、そう思う。
・「日本は石油資源の99%を輸入している。しかもその80%を中東から輸入している。もし米国が言う通りにして中東から日本向けに原油の輸入がストップしたら、それを米国が肩代わりしてくれますか」
キッシンジャーが「うっ」という顔をした。一瞬黙る。
すかさず角栄が言う。
「そうでしょう。あなたがおっしゃっていることは、そういうことなのです」
そのうえで角栄はこう言った。
「日本はこの窮地を脱するため、アラブにある程度、歩み寄った対応をせざると得ない。日本の立場を説明するためあらぶ主要国に特使を派遣する準備を進めている」
何よりも「国際紛争の武力による解決を容認しないといのが日本外交の基本的態度」という姿勢が中東諸国の共感を呼んだ。OAPECが日本を「友好国」と認めたのだ。日本に必要量の石油が供給されることが決まり危機は去った。ここでもまた角栄の舞台回しが国難を救ったのだった。
感想;
田中角栄氏の評価は分かれるのではと思います。
ただ、大きな実績を残されたことは事実です。
濃縮ウランを大量に買ったので、その後原発が増えてしまったのかもしれません。
それは先を見ることの難しさでもあります。
福島第一原発がリスク高いことはアセスメントでもわかっていたことで、その後の東電の経営層がそのリスクを正しく理解していると変わったでしょう。
人の話をよく聴く。
データを頭に入れて考え話をする。
思い付きでパーフォーマンスをされる首相とは雲泥の差のように思いました。