『論語』が道徳の名言集、『孫子』が策略の知恵袋だとすれば、『菜根譚』は処世訓の最高傑作と言えましょう。著者は港応明。字の自誠をとって、港自誠と呼ばれます。おおよそ明代末期(1573~1620年)頃の人であったと考えられています。
『菜根』とは宋の汪信民の言葉にちなみます。
「人は常に菜根(野菜の根)をよく咬んでいれば、あらゆる事はなしとげられる
「譚」は「談」と同じです。
内容上の特色は、儒・仏・道の融合という点にあるでしょう。
中国の思想は、一般には、儒教が主流だと考えられていますが、老荘思想やそれをベースにした道教、そしてインドから伝来した仏教も強い影響力を持っていました。
・人生を磨く砥石
耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それではじめて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。もし、言葉がすべて耳に心地よく、ことがらがすべて快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。(前集5)
・失敗は成功のもと
恩寵を受けている時にとかく害を生ずるものだ。だから、得意快心の時には、すみやかに周囲に目配りしなければならない。失敗した後にかえって成功を収めることがある。だから、思うようにならぬことがあっても、決して手を離してはならないのである。(前集10)
・一歩を譲る
世の中を渡っていくのに一歩を譲る気持ちが大切である。一歩退くのは、のちのち一歩を進めるための伏線となる。人を待遇するのに少し寛大にする心がけが望ましい。他人に利を与えるのは、実は将来自分を利するための土台になる。(前集17)
・完全な名誉、立派な節操という評判は、独り占めしてはならない。そのいくらかを他人に譲り与えれば、危害を遠ざけ、身をまっとうすることができる。不名誉な行為や評価は、それをすべて他人に押しつけてはならない。そのわずかでも自分が引き受ければ、自分の才能をひけらかすことなく人徳を養うことになる。(前集19)
・まずは自分の心を整える
外界の悪魔を降そうとする者は、まず自分の心を整える必要がある。心が整っていれば、もろもろの悪魔は退散し服従するであろう。よこしまな心を制御しようとする者は、まず自身の気を制御する必要がある。気が平静になっていれば、外からの災難も自身を侵すことはないであろう。(前集38)
・施しの気持ち
恩を施す者が、心の内にその自分を意識せず、施す相手の感謝などを意識しなければ、たとえ斗粟(とぞく;わずかな施し)であっても、それは、万鐘(莫大な恩恵)に値する。利益を与えようとする者が、自分の施しの額を計算し、施した相手からの報酬を求めるようであれば、たとえ百溢(巨額のお金)を与えたとしても、それは一文の値打ちにもならない。(前集52)
・衣冠の盗
書物を読んでも聖人賢者の心に出会うことがなければ、それは単なる鉛槧(えんざん)の傭(文字の奴隷)である。間食に就いていながら人民を愛さなければ、それは単なる衣冠の盗(給料泥棒)である。学問を教える立場にありながら、自ら実践することを尊ばなければ、それは口先だけの禅問答である。事業を興しても後々のために徳を残すことを思わなければ、それは単なる眼前の花(あだ花)である。(前集56)
・苦心の中にある幸せ
あれこれと苦心している中に、とかく心を喜ばせるような面白さがあり、逆に、自分の思い通りになっているときに、すでに失意の悲しみが生じている。(前集58)
・悪中の善、善中の悪
悪事を行いながら、それでも人に知られることを恐れる者は、まだ悪の中にもわずかに善に向かう道があるといえる。立派な行いをして、そのことを他人に知って欲しいと焦る者は、善意の行いも、そのまま悪の根源となってしまう。(前集67)
・長続きする幸せ
苦しんだり楽しんだりしてして修練し、その修練をきわめた後に得た幸福であって、はじめて長続きする。疑ったり信じたりして考え抜き、考え抜いた後に得た知識であって、はじめて本物となる。(前集74)
・徳を養う三つの心がけ
人の小さな過失を責めたてず、人のプライバシーをあばかず、人の過去の悪事をいつまでも覚えていない。この三つのことを守れば、自分の道徳心を養い、また危害を遠ざけることができる。(前集105)
・意を曲げる危険
自分の意思を曲げてでも人を喜ばせようとするのは、自分の実の行いを正直にして人に嫌われるのに及ばない。善い行いがないのに人に褒められようとするのは、悪い行いがないのに人にそしられるのに及ばない。(前集112)
・口を開く度合
いつも静かで何も語らない人にあえば、「その人の心の底が分からないから」しばらく控え目にして心を許してはならない。一方、遠慮なく何でもしゃべって得意になっている人を見たら、「うっかりこちらの発言を誤解されたり、言いふらされたりするから」軽々しく口を開いてはならない。(前集122)
・対人関係の極意
他人の偽りに気づいても、「荒立てずに」それを口に出さず、他人から侮辱されても「じっと我慢して」怒りの色をあらわさあに。この中にこそ、「対人関係の」尽きることのない深い意味があり、また、尽きることのない働きがあるのだ。(前集126)
・思慮と徳のバランス
人を害する気持ちを持ってはならず、人を守る気持ちは必ず持て。これは、思慮にうといということを戒める言葉である。また、人から欺かれても、人の偽りを迎え撃つような小細工をしてはならない。これは、推察が深すぎて逆に自分の徳をやぶることを警告した言葉絵である。この二つの言葉をともに心がけていけば、思慮は明らかになり、徳は厚くなるのである。(前集129)
・「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)」
・反省心は薬石となる
自分を反省する人は、何事に触れてもすべてが身を養う薬となる。逆に、人を責めてばかりの人は、心を動かすことに、それがそのまま自らを傷つける武器となる。前者はもろもろの善の道を開き、後者はもろもろの悪の源を深くする。その違いは、まるで霄壌(しょうじょう;天地)雲泥のごとくである。(前集146)
・いつ引退するか
事業を辞して引退するのは、まさに最も盛んなときにこそ退くべきである。自分の身の置き場所は、他人より、一歩下がった所に置くのがよい。(前集154)
・人を信ずる
人を信用する者は、相手がすべて誠実であるとは限らないが、少なくともじぶんだけは誠実であるといえる。逆に、人を疑ってかかる者は、相手がすべて偽りに満ちているとは限らないが、すでに自分は心を偽っていることになる。(前集159)
・善と悪の現れ
善行をしながら、その御利益が見えないのは、ちょうど草むらの中の冬瓜のようなもので、やがて人知れず、自然と大きく成長していく。悪事を行いながら、その損失がわからないのは、ちょうど庭先のなごり雪のようであり、知らない内に必ずとけ消えてしまう。(前集161)
・君子と小人
小人とけんかするな。小人には小人なりの相手がいる。君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきはしない。(前集186)
・「盈満之咎」(えいまんのとがめ)
・畏敬の念を持つ
身分高き人には畏敬の念を持たなければならない。畏敬の念があれば、心が放漫散佚(勝手きまま)になることがない。身分の低い民にも畏敬の念を持たなければならない。畏敬の念があれば傲慢横暴であるという名も立たない。(前集211)
・「手の舞足の踏む所を知らず」(嬉しさの余り踊り出すような心境)
・「借境調心(しゃくきょうちょうしん」
外の環境を借りて心の中を整える。
・「疑心暗鬼」
気持ちが動揺していれば、弓の影を見ても蛇やサソリではないかと疑い・・・。(後集48)
・老人の心になってみる
仮に老人の心になって若い者を見てみれば、たがいに功名を起訴って走り回るような心は消し去ることができるし、仮に落ちぶれた者の立場になって富貴な人をみれば、はではでしく麗しいことを欲するような気持ア断ちきることができる。(後集57)
・水を得て水を忘れる
魚は水を得てその水中を泳ぎ、それでいて水にいることをすっかり忘れている。・・・(後集68)
・彼岸に至る
人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。だから釈迦もいう、「利欲に向かう心が強すぎると、さながら燃えさかえる炎の海、貪欲に心が溺れてしまうと、さながらそれは苦しみの海。心を少し清浄にすれば、火焔も池となり、はっと目覚めれば、苦海を渡る船も彼岸に至る」と、心持ちが少し異なるだけで、こうも境界が異なってくる。よくよく考えなくてはならない。(後集109)
・「縄鋸木断(じょうきょぼくだん)」
繰り返し縄を引いて鋸のようにし、ついには木をも断ち切る。継続は力なり。
・「口耳(こうじ)」
他人から聞いたことを十分に理解しないまま、すぐ別の人に説くような軽薄な学問。
・「頑空(がんくう)」
外面だけ頑固で中身のないこと。
感想;
「菜根譚」は知りませんでした。
人が集まると人と人とのコミュニケーションや摩擦など生じます。
そこを上手く行えるかどうかで生きやすさも変わるのでしょう。
藩塾では四書五経を学んでいたそうです。
人として、上に立つ者として、どうあるべきかが学んでいた人が明治維新に大きな指導力を発揮したとも言われています。
今の政治家にはその学びがないように思ってしまいます。
『菜根』とは宋の汪信民の言葉にちなみます。
「人は常に菜根(野菜の根)をよく咬んでいれば、あらゆる事はなしとげられる
「譚」は「談」と同じです。
内容上の特色は、儒・仏・道の融合という点にあるでしょう。
中国の思想は、一般には、儒教が主流だと考えられていますが、老荘思想やそれをベースにした道教、そしてインドから伝来した仏教も強い影響力を持っていました。
・人生を磨く砥石
耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それではじめて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。もし、言葉がすべて耳に心地よく、ことがらがすべて快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。(前集5)
・失敗は成功のもと
恩寵を受けている時にとかく害を生ずるものだ。だから、得意快心の時には、すみやかに周囲に目配りしなければならない。失敗した後にかえって成功を収めることがある。だから、思うようにならぬことがあっても、決して手を離してはならないのである。(前集10)
・一歩を譲る
世の中を渡っていくのに一歩を譲る気持ちが大切である。一歩退くのは、のちのち一歩を進めるための伏線となる。人を待遇するのに少し寛大にする心がけが望ましい。他人に利を与えるのは、実は将来自分を利するための土台になる。(前集17)
・完全な名誉、立派な節操という評判は、独り占めしてはならない。そのいくらかを他人に譲り与えれば、危害を遠ざけ、身をまっとうすることができる。不名誉な行為や評価は、それをすべて他人に押しつけてはならない。そのわずかでも自分が引き受ければ、自分の才能をひけらかすことなく人徳を養うことになる。(前集19)
・まずは自分の心を整える
外界の悪魔を降そうとする者は、まず自分の心を整える必要がある。心が整っていれば、もろもろの悪魔は退散し服従するであろう。よこしまな心を制御しようとする者は、まず自身の気を制御する必要がある。気が平静になっていれば、外からの災難も自身を侵すことはないであろう。(前集38)
・施しの気持ち
恩を施す者が、心の内にその自分を意識せず、施す相手の感謝などを意識しなければ、たとえ斗粟(とぞく;わずかな施し)であっても、それは、万鐘(莫大な恩恵)に値する。利益を与えようとする者が、自分の施しの額を計算し、施した相手からの報酬を求めるようであれば、たとえ百溢(巨額のお金)を与えたとしても、それは一文の値打ちにもならない。(前集52)
・衣冠の盗
書物を読んでも聖人賢者の心に出会うことがなければ、それは単なる鉛槧(えんざん)の傭(文字の奴隷)である。間食に就いていながら人民を愛さなければ、それは単なる衣冠の盗(給料泥棒)である。学問を教える立場にありながら、自ら実践することを尊ばなければ、それは口先だけの禅問答である。事業を興しても後々のために徳を残すことを思わなければ、それは単なる眼前の花(あだ花)である。(前集56)
・苦心の中にある幸せ
あれこれと苦心している中に、とかく心を喜ばせるような面白さがあり、逆に、自分の思い通りになっているときに、すでに失意の悲しみが生じている。(前集58)
・悪中の善、善中の悪
悪事を行いながら、それでも人に知られることを恐れる者は、まだ悪の中にもわずかに善に向かう道があるといえる。立派な行いをして、そのことを他人に知って欲しいと焦る者は、善意の行いも、そのまま悪の根源となってしまう。(前集67)
・長続きする幸せ
苦しんだり楽しんだりしてして修練し、その修練をきわめた後に得た幸福であって、はじめて長続きする。疑ったり信じたりして考え抜き、考え抜いた後に得た知識であって、はじめて本物となる。(前集74)
・徳を養う三つの心がけ
人の小さな過失を責めたてず、人のプライバシーをあばかず、人の過去の悪事をいつまでも覚えていない。この三つのことを守れば、自分の道徳心を養い、また危害を遠ざけることができる。(前集105)
・意を曲げる危険
自分の意思を曲げてでも人を喜ばせようとするのは、自分の実の行いを正直にして人に嫌われるのに及ばない。善い行いがないのに人に褒められようとするのは、悪い行いがないのに人にそしられるのに及ばない。(前集112)
・口を開く度合
いつも静かで何も語らない人にあえば、「その人の心の底が分からないから」しばらく控え目にして心を許してはならない。一方、遠慮なく何でもしゃべって得意になっている人を見たら、「うっかりこちらの発言を誤解されたり、言いふらされたりするから」軽々しく口を開いてはならない。(前集122)
・対人関係の極意
他人の偽りに気づいても、「荒立てずに」それを口に出さず、他人から侮辱されても「じっと我慢して」怒りの色をあらわさあに。この中にこそ、「対人関係の」尽きることのない深い意味があり、また、尽きることのない働きがあるのだ。(前集126)
・思慮と徳のバランス
人を害する気持ちを持ってはならず、人を守る気持ちは必ず持て。これは、思慮にうといということを戒める言葉である。また、人から欺かれても、人の偽りを迎え撃つような小細工をしてはならない。これは、推察が深すぎて逆に自分の徳をやぶることを警告した言葉絵である。この二つの言葉をともに心がけていけば、思慮は明らかになり、徳は厚くなるのである。(前集129)
・「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)」
・反省心は薬石となる
自分を反省する人は、何事に触れてもすべてが身を養う薬となる。逆に、人を責めてばかりの人は、心を動かすことに、それがそのまま自らを傷つける武器となる。前者はもろもろの善の道を開き、後者はもろもろの悪の源を深くする。その違いは、まるで霄壌(しょうじょう;天地)雲泥のごとくである。(前集146)
・いつ引退するか
事業を辞して引退するのは、まさに最も盛んなときにこそ退くべきである。自分の身の置き場所は、他人より、一歩下がった所に置くのがよい。(前集154)
・人を信ずる
人を信用する者は、相手がすべて誠実であるとは限らないが、少なくともじぶんだけは誠実であるといえる。逆に、人を疑ってかかる者は、相手がすべて偽りに満ちているとは限らないが、すでに自分は心を偽っていることになる。(前集159)
・善と悪の現れ
善行をしながら、その御利益が見えないのは、ちょうど草むらの中の冬瓜のようなもので、やがて人知れず、自然と大きく成長していく。悪事を行いながら、その損失がわからないのは、ちょうど庭先のなごり雪のようであり、知らない内に必ずとけ消えてしまう。(前集161)
・君子と小人
小人とけんかするな。小人には小人なりの相手がいる。君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきはしない。(前集186)
・「盈満之咎」(えいまんのとがめ)
・畏敬の念を持つ
身分高き人には畏敬の念を持たなければならない。畏敬の念があれば、心が放漫散佚(勝手きまま)になることがない。身分の低い民にも畏敬の念を持たなければならない。畏敬の念があれば傲慢横暴であるという名も立たない。(前集211)
・「手の舞足の踏む所を知らず」(嬉しさの余り踊り出すような心境)
・「借境調心(しゃくきょうちょうしん」
外の環境を借りて心の中を整える。
・「疑心暗鬼」
気持ちが動揺していれば、弓の影を見ても蛇やサソリではないかと疑い・・・。(後集48)
・老人の心になってみる
仮に老人の心になって若い者を見てみれば、たがいに功名を起訴って走り回るような心は消し去ることができるし、仮に落ちぶれた者の立場になって富貴な人をみれば、はではでしく麗しいことを欲するような気持ア断ちきることができる。(後集57)
・水を得て水を忘れる
魚は水を得てその水中を泳ぎ、それでいて水にいることをすっかり忘れている。・・・(後集68)
・彼岸に至る
人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。だから釈迦もいう、「利欲に向かう心が強すぎると、さながら燃えさかえる炎の海、貪欲に心が溺れてしまうと、さながらそれは苦しみの海。心を少し清浄にすれば、火焔も池となり、はっと目覚めれば、苦海を渡る船も彼岸に至る」と、心持ちが少し異なるだけで、こうも境界が異なってくる。よくよく考えなくてはならない。(後集109)
・「縄鋸木断(じょうきょぼくだん)」
繰り返し縄を引いて鋸のようにし、ついには木をも断ち切る。継続は力なり。
・「口耳(こうじ)」
他人から聞いたことを十分に理解しないまま、すぐ別の人に説くような軽薄な学問。
・「頑空(がんくう)」
外面だけ頑固で中身のないこと。
感想;
「菜根譚」は知りませんでした。
人が集まると人と人とのコミュニケーションや摩擦など生じます。
そこを上手く行えるかどうかで生きやすさも変わるのでしょう。
藩塾では四書五経を学んでいたそうです。
人として、上に立つ者として、どうあるべきかが学んでいた人が明治維新に大きな指導力を発揮したとも言われています。
今の政治家にはその学びがないように思ってしまいます。