https://news.yahoo.co.jp/articles/b6ee24d1ae658fb5fe683f6a95f745cfc8e1db52?page=1 9/15(木) 16:45ニューズウィーク日本版
<さまざまな計算違いでここまで大ごとになってしまった国葬問題で試されているのは、岸田首相の「撤退力」だ>
岸田首相も、国葬の判断を早まったと感じているかもしれない
7月8日に銃撃事件で亡くなった安倍晋三元首相の「国葬儀」が9月27日に行われる予定だ。しかし法的根拠の曖昧さや旧統一協会問題への関心への高まりにより、世論調査では国葬に反対する声が多数派となった。当初目論まれていた海外の大物政治家の弔問もほとんどない。反対する声を押し切って国葬を強行する意味はあるのだろうか。招待状の発送など国葬の既成事実化が進んでいるが、今からでも止めたほうが岸田政権のためでもあるのではないか。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】
銃撃当初のムードが一変
筆者は7月に「安倍元首相の国葬に反対する」という記事を出した。安倍晋三元首相の功績には論争の余地があり他の首相経験者に対して特別扱いする根拠はない。また安倍元首相は在職中、立憲政治への挑戦を数多く行ってきた。そのような人物を、民主主義のシンボルとして国民の人格的統合のために利用するのは、まさに民主主義の理念に相応しくない、という内容だ。
筆者がこの主張を行った時点ではそれほど国葬反対の声は大きくなかったように思われる。しかしその後、旧統一協会問題が大々的に報道されるようになったころから、それに比例するかたちで国葬反対の声は大きくなり、各種世論調査では8月ごろになると賛成を上回るようになった。
国葬の理由を提示できない日本政府
岸田首相は、安倍元首相の国葬を早々に決断したことを後悔しているかもしれない。ここまで国葬反対の声が大きくなるとは、事件直後の感情的なムードからは考えられなかっただろう。事件直後は「民主主義を守れ」というスローガンが、国葬を実施する一つの根拠となっていた。しかし犯行の動機が政治的な対立によるものではなく、旧統一協会絡みの私怨であったことが明らかになるにつれて、そのスローガンは虚しいものになっていった。
日本には国葬について定めた根拠法がなく、従って例外的に国葬を執り行うためにはしかるべき手続きを踏む必要がある。少なくとも財政民主主義の観点からいえば、国葬には国費が投入される以上、国会の議決は必須だろう。しかし岸田政権は国葬を閣議決定のみで決めてしまった。そのような手続きの軽視については当然ながら批判が集まる。これを覆すには、安倍元首相の国葬は閣議決定のみで事足りるという、誰もが納得するような自明性と緊急性がなければならない。
しかし、岸田政権はどちらも提示できていない。安倍元首相の事績を手放しで絶賛するのはコアな支持層だけであり、また国葬は急いで決めなければいけない性質のものではないからだ。
「反対は無礼」が支持者のディフェンス
国葬を実施すべき根拠として「弔問外交」の意義を主張する者がいる。国葬は比較的少ない費用で各国の首脳を呼び寄せることができるため、低コストで大きな外交的チャンスを獲得できるというのだ。もちろんこのプランは皮算用であり、蓋を開けてみればマクロン仏大統領やバイデン米大統領をはじめとする主要国のトップはほぼ出席しないことが分かっている。さらにトランプ前大統領やメルケル前独首相など、著名な元職の出席も見送られた。
さらに国葬にかかる費用も、比較的廉価というわけにもいかず、警備予算も含め発表される金額はどんどん膨れ上がっており、最終的には驚くほどの金額となっているかもしれない。税金を投入しているにも拘らず、この杜撰な金勘定のあり方にも批判は集まっている。
最終的に国葬推進派の主張は「葬儀に対して批判したり大騒ぎしたりする者は無礼である」という感情論に落ち着いてきた。政府は国葬参加者を集めるために招待状を乱発しており、国会議員の元職や文化人にも届いているという。招待された人の中には、国葬に反対する立場からその欠席を公言する者がいるが、これが無礼なのだという。
国葬は政治的パフォーマンスである
「国葬反対を公言するのは無礼」という主張については、国葬は個人のプライベートな葬式ではなく公的な政治イベントである、ということをもって「論破」することができる。安倍家による葬儀は既に執り行われている。それはプライベートな葬儀であり、実施するしないに他人がどうこう言う筋合いはないものだ(ただし、プライベートな葬儀に自衛隊の儀仗隊が派遣されていたことは問題だ)。
国葬は違う。国葬は国費によって執り行われる、亡くなった人の人格を利用して何らかの政治的な目的を達成するための政治イベントであり、国家による政治的パフォーマンスなのだ。国家は政治的な祭典を行い、そのことによって政治的神話をつくる。たとえば戦前の日本政府は、靖国神社を通して戦死者を顕彰することで、国のために死ぬことを当然視するイデオロギーを国民に注入した。
安倍元首相を例外的に国葬にするということは、安倍晋三という個人を国家が、他の首相経験者とも異なる特別な存在としての栄誉を与えるということだ。そのような高度に政治的な事柄について、騒がず静かに推移を見守るのは極めてナイーブな態度であり、責任ある「大人」ならむしろ堂々と賛否を主張するべきなのだ。従って、誰それが国葬に出席するか欠席するかは十分に政治的な行為となり、それを公言することはむしろ積極的に推奨されてよいのだ。
国葬反対は安倍元首相の政治手法のツケ
ただし、葬儀と政治的祭典を混同することで感情に訴える国葬推進派の作戦をもってしても、国葬賛成派が劇的に増加することないだろう。興味深いのは、国葬への不信が、安倍政権以来、自民党が行い続けてきたことへの不信とパラレルだということだ。
たとえば、国会での議決を回避して重要事項を閣議決定で済ましてしまうことは安倍政権下でも行われてきた。憲法53条による臨時国会の開催要求を無視しているのも安倍政権からの悪癖だ。さらに国葬への予算が膨らみ続けているのは、オリンピック予算が膨らみ続けてきたことを彷彿とさせる。
「弔問外交」なのだと安倍元首相の国際的な人望を皮算用して失敗することも、四島返還に期待をもたせ、多額の経済的支援を行った結果、一島も還ってこなかったロシアとの北方領土返還交渉という前例がある。もし政府が国葬への支持を広めたいなら、まず安倍政権から続く自民党政権の悪癖を反省し、まっとうな立憲政治へと立ち戻る必要があるだろう。
今からでも撤回するのが身のため
とはいえ、そもそも国葬というものは無理をして執り行うべきものでもない。ここまで収拾がつかなくなってしまった安倍元首相の国葬は、今からでも取り止めてしまったほうがすっきりするのではないか。慣習通り内閣と自民党の合同葬という形式にして、招待客や規模を縮小して執り行うことにすれば、落としどころは見えてきそうだ。9月12日、鎌倉市議会は国葬実施撤回を求める意見書を採択した。9月9日には鳥取県日南町議会が国葬中止を求める決議案を可決している。
このように、地方自治体レベルでも、国葬の見直しを求める意見が出てきている。国葬を潔く撤回する決断力が岸田首相には求められる。結果的にそれは、政権側にとってもメリットがあることだと思うのだが。
感想;
安倍元首相が、モリカケ問題や桜を見る会前夜懇親会などの問題もあります。
それ以上に大きいのは、旧統一教会に協力してきたという売国行為をしてきた人を国葬に値する人かどうかです。
毎年600億円が日本人から金を霊感商法などで騙し取って韓国に送金してきたと言われています。
また、日本人女性7,000人が韓国の貧農などに嫁として送り込まれ、多くの本人や家族が苦しんでいます。
まさに売国行為ではないでしょうか?
自分の派閥議員を当選させるために、旧統一教会を活用したつもりが、旧統一教会の方が上手で利用されてきたのです。
国葬に値する人物かどうかが大きいと思います。
されに記事に書かれている多くの問題点もあります。
どんどん支持率が下がり不支持率が上がり、ついに不支持率が支持率を上回りました。
政権末期と言われている支持率が30%台になった時事通信の最近の調査がありました。
国葬反対は賛成の倍です。かつ国民の半数以上が反対です。
起死回生の手は、記事の通り国葬を中止する選択肢もあると思いました。
その決断力はないと思いますが。
<さまざまな計算違いでここまで大ごとになってしまった国葬問題で試されているのは、岸田首相の「撤退力」だ>
岸田首相も、国葬の判断を早まったと感じているかもしれない
7月8日に銃撃事件で亡くなった安倍晋三元首相の「国葬儀」が9月27日に行われる予定だ。しかし法的根拠の曖昧さや旧統一協会問題への関心への高まりにより、世論調査では国葬に反対する声が多数派となった。当初目論まれていた海外の大物政治家の弔問もほとんどない。反対する声を押し切って国葬を強行する意味はあるのだろうか。招待状の発送など国葬の既成事実化が進んでいるが、今からでも止めたほうが岸田政権のためでもあるのではないか。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】
銃撃当初のムードが一変
筆者は7月に「安倍元首相の国葬に反対する」という記事を出した。安倍晋三元首相の功績には論争の余地があり他の首相経験者に対して特別扱いする根拠はない。また安倍元首相は在職中、立憲政治への挑戦を数多く行ってきた。そのような人物を、民主主義のシンボルとして国民の人格的統合のために利用するのは、まさに民主主義の理念に相応しくない、という内容だ。
筆者がこの主張を行った時点ではそれほど国葬反対の声は大きくなかったように思われる。しかしその後、旧統一協会問題が大々的に報道されるようになったころから、それに比例するかたちで国葬反対の声は大きくなり、各種世論調査では8月ごろになると賛成を上回るようになった。
国葬の理由を提示できない日本政府
岸田首相は、安倍元首相の国葬を早々に決断したことを後悔しているかもしれない。ここまで国葬反対の声が大きくなるとは、事件直後の感情的なムードからは考えられなかっただろう。事件直後は「民主主義を守れ」というスローガンが、国葬を実施する一つの根拠となっていた。しかし犯行の動機が政治的な対立によるものではなく、旧統一協会絡みの私怨であったことが明らかになるにつれて、そのスローガンは虚しいものになっていった。
日本には国葬について定めた根拠法がなく、従って例外的に国葬を執り行うためにはしかるべき手続きを踏む必要がある。少なくとも財政民主主義の観点からいえば、国葬には国費が投入される以上、国会の議決は必須だろう。しかし岸田政権は国葬を閣議決定のみで決めてしまった。そのような手続きの軽視については当然ながら批判が集まる。これを覆すには、安倍元首相の国葬は閣議決定のみで事足りるという、誰もが納得するような自明性と緊急性がなければならない。
しかし、岸田政権はどちらも提示できていない。安倍元首相の事績を手放しで絶賛するのはコアな支持層だけであり、また国葬は急いで決めなければいけない性質のものではないからだ。
「反対は無礼」が支持者のディフェンス
国葬を実施すべき根拠として「弔問外交」の意義を主張する者がいる。国葬は比較的少ない費用で各国の首脳を呼び寄せることができるため、低コストで大きな外交的チャンスを獲得できるというのだ。もちろんこのプランは皮算用であり、蓋を開けてみればマクロン仏大統領やバイデン米大統領をはじめとする主要国のトップはほぼ出席しないことが分かっている。さらにトランプ前大統領やメルケル前独首相など、著名な元職の出席も見送られた。
さらに国葬にかかる費用も、比較的廉価というわけにもいかず、警備予算も含め発表される金額はどんどん膨れ上がっており、最終的には驚くほどの金額となっているかもしれない。税金を投入しているにも拘らず、この杜撰な金勘定のあり方にも批判は集まっている。
最終的に国葬推進派の主張は「葬儀に対して批判したり大騒ぎしたりする者は無礼である」という感情論に落ち着いてきた。政府は国葬参加者を集めるために招待状を乱発しており、国会議員の元職や文化人にも届いているという。招待された人の中には、国葬に反対する立場からその欠席を公言する者がいるが、これが無礼なのだという。
国葬は政治的パフォーマンスである
「国葬反対を公言するのは無礼」という主張については、国葬は個人のプライベートな葬式ではなく公的な政治イベントである、ということをもって「論破」することができる。安倍家による葬儀は既に執り行われている。それはプライベートな葬儀であり、実施するしないに他人がどうこう言う筋合いはないものだ(ただし、プライベートな葬儀に自衛隊の儀仗隊が派遣されていたことは問題だ)。
国葬は違う。国葬は国費によって執り行われる、亡くなった人の人格を利用して何らかの政治的な目的を達成するための政治イベントであり、国家による政治的パフォーマンスなのだ。国家は政治的な祭典を行い、そのことによって政治的神話をつくる。たとえば戦前の日本政府は、靖国神社を通して戦死者を顕彰することで、国のために死ぬことを当然視するイデオロギーを国民に注入した。
安倍元首相を例外的に国葬にするということは、安倍晋三という個人を国家が、他の首相経験者とも異なる特別な存在としての栄誉を与えるということだ。そのような高度に政治的な事柄について、騒がず静かに推移を見守るのは極めてナイーブな態度であり、責任ある「大人」ならむしろ堂々と賛否を主張するべきなのだ。従って、誰それが国葬に出席するか欠席するかは十分に政治的な行為となり、それを公言することはむしろ積極的に推奨されてよいのだ。
国葬反対は安倍元首相の政治手法のツケ
ただし、葬儀と政治的祭典を混同することで感情に訴える国葬推進派の作戦をもってしても、国葬賛成派が劇的に増加することないだろう。興味深いのは、国葬への不信が、安倍政権以来、自民党が行い続けてきたことへの不信とパラレルだということだ。
たとえば、国会での議決を回避して重要事項を閣議決定で済ましてしまうことは安倍政権下でも行われてきた。憲法53条による臨時国会の開催要求を無視しているのも安倍政権からの悪癖だ。さらに国葬への予算が膨らみ続けているのは、オリンピック予算が膨らみ続けてきたことを彷彿とさせる。
「弔問外交」なのだと安倍元首相の国際的な人望を皮算用して失敗することも、四島返還に期待をもたせ、多額の経済的支援を行った結果、一島も還ってこなかったロシアとの北方領土返還交渉という前例がある。もし政府が国葬への支持を広めたいなら、まず安倍政権から続く自民党政権の悪癖を反省し、まっとうな立憲政治へと立ち戻る必要があるだろう。
今からでも撤回するのが身のため
とはいえ、そもそも国葬というものは無理をして執り行うべきものでもない。ここまで収拾がつかなくなってしまった安倍元首相の国葬は、今からでも取り止めてしまったほうがすっきりするのではないか。慣習通り内閣と自民党の合同葬という形式にして、招待客や規模を縮小して執り行うことにすれば、落としどころは見えてきそうだ。9月12日、鎌倉市議会は国葬実施撤回を求める意見書を採択した。9月9日には鳥取県日南町議会が国葬中止を求める決議案を可決している。
このように、地方自治体レベルでも、国葬の見直しを求める意見が出てきている。国葬を潔く撤回する決断力が岸田首相には求められる。結果的にそれは、政権側にとってもメリットがあることだと思うのだが。
感想;
安倍元首相が、モリカケ問題や桜を見る会前夜懇親会などの問題もあります。
それ以上に大きいのは、旧統一教会に協力してきたという売国行為をしてきた人を国葬に値する人かどうかです。
毎年600億円が日本人から金を霊感商法などで騙し取って韓国に送金してきたと言われています。
また、日本人女性7,000人が韓国の貧農などに嫁として送り込まれ、多くの本人や家族が苦しんでいます。
まさに売国行為ではないでしょうか?
自分の派閥議員を当選させるために、旧統一教会を活用したつもりが、旧統一教会の方が上手で利用されてきたのです。
国葬に値する人物かどうかが大きいと思います。
されに記事に書かれている多くの問題点もあります。
どんどん支持率が下がり不支持率が上がり、ついに不支持率が支持率を上回りました。
政権末期と言われている支持率が30%台になった時事通信の最近の調査がありました。
国葬反対は賛成の倍です。かつ国民の半数以上が反対です。
起死回生の手は、記事の通り国葬を中止する選択肢もあると思いました。
その決断力はないと思いますが。