・「土芥寇讎記」 幕府隠密の“秘密情報”
・おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたもの
・元禄三(1690年)ごろに書かれたもので、当時の大名243人の人物評価を載せた稀有な書物であること
・現存するのは東京大学史料編纂所所蔵の一冊だけである
・水戸黄門
中国では黄色は皇帝の色で、宮廷の門は黄色に塗ってあった。その黄色い門のうちを支配する役職が、黄門侍郎で、日本では、中納言がこれにあたるとされた。
・「通信簿」をみるかぎり、光圀の成績は、悪くない。家来にも領民にも憐み深く、気前のいい殿様で、みな安心している。一応、そう書かれている。「土芥寇讎記」の大名評価は辛辣なものが多く、光圀のように「善政」をたたえられる大名は少ない。
・一藩に13人の藩主がいて、藩の数は約250。13×250=3250.つまり「大名の経験者」は三千人以上いた。
・「足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す」。吉良家は足利の子孫である。そのため、吉良家は「高家」となり、破格の優遇をうけた。ひとえに血統の良さによる。高家は禄高は少ないが、官位はずば抜けて高い。吉良家の家禄はわずか4200石にすぎない。ところが、吉良上野介の官位は、恐ろしく高い。従四位上・左近衛権少将という破格のものであった。「浅野内匠頭の従五位下と、たいして変わらないのではないか」。あるいは、そう思われるかもしれない。たしかに、吉良の位階は、浅野より三ランク高いだけである。しかし、この三ランクの差は大きい。天と地ほどの差である。当時、加賀百万石の前田綱紀と位と同じであった。つまり、4200石の旗本吉良家は、百万石の前田家と位のうえでは同格だったのである。江戸城のなかで、大名の席順は、石高でなく官位できます。そのため、「官位」は、大名の最大の関心事になっていた。吉良上野介が、赤穂五万三千石の浅野内匠頭を馬鹿にしきっていたのは、ひとえにこの官位の差によるものであった。おそらく、吉良は内匠頭を遠慮なく罵倒したのであろう。そして、あの刃傷事件がおきてしまったのである。
浅野がこだわり、一歩も譲らなかった「自意識」とは、城持大名という強烈な誇りであった。
・内匠頭は「昼夜、閨房にあって、(女と)たわむれ」とあるように、昼間も「奥」にひきこもって出てこず、奥向きのおなごと、いちゃついている。当然、政治にはならない。それで「政道は幼少の時より成長の今に至るまで、家老の心に任せている」というように、結局、家老の大石内蔵助らが政治をみていた。「内匠頭が閨房で女と戯れ、ちっとも政務に出てこない。仕方なく、大石が筆頭家老として藩政を取り仕切っていた。それで、藩士は大石の言うことをきく習慣ができていた」とういうことも考えられるのである。「殿さまの通信簿」は、最後に、内匠頭の人物評をまとめている。なかなか手厳しい。注目すべきことに、大石の態度についても激しく批判している。
内匠頭は「女色にふけるの難」があり、「婬乱無動」だと、はっきりいっている。そのうえ、このままでは「家を滅ぼす」という、恐ろしい預言まで残している。そして、批判の矛先は、大石たち家老に向けられている。「なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諫めないのか」ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を、不忠の臣として、名指しで批判している。
・江戸時代をはじめ、「名君」は四人いる。一人は水戸の徳川光圀、もう一人は金沢の前田綱紀、会津の保科正之、そして、岡山の池田光政である。いずれも儒学を好み、みずから藩政をみちびいて、治績をあげた。
・前田利家「絶対に、子のことを悪くいってはいけない。なかでも、他人のまえで自分の子を悪しざまにいうのが一番いけない」という。子どもに悪いところがあったら、「こうしたほうがよい」と、子ども本人に丁寧に教えてやればよいだけだ、というのである。親子が仲違いしてしまっては、元も子もない。
・「利長様はご自身で毒を飲まれた」 江戸時代、加賀藩では、この話は公然の秘密であった。前田利長は徳川との対決をさけるため、毒を飲んで自分の存在を消し、それで晴れて前田家は徳川方として豊臣攻めに加わることができた。加賀藩ではずっと、そのように信じられてきた。利長は父利家から「秀頼公を御守りするよう」に遺言されていた。(せがれ)利常は徳川から秀忠の娘を貰って婚姻関係があった。
・島津の兵力が大きいのは「兵農分離」というものが不完全で、たくさんの郷士がいたからである。延岡藩(内藤氏)は士族比率が全人口の3.44%である。ところがその南の高鍋藩(秋月氏)では18%になり、佐土原藩(島津氏)は35%、飫肥藩(伊東氏)では20%、宮崎県内の鹿児島藩領では31%となっていて、10倍ぐらい士族の比率がちがう。明治に士族の制度ができたとき、日本の士族の十人に一人は鹿児島藩士であった。
・家康が武田が残した人を煎るための釜を見つけ、背いたらこの釜で煎るぞと脅しのために活用しようと運ばせた。そこへ作左衛門が来て、この窯を粉々に打ち砕いた。奉行の話によれば、作左衛門は、釜を壊しながら、こう、捨てゼリフを吐いたという。
「帰って、家康公の申せ。釜で煎り殺すような罪人が出来るようでは、天下国家を治めることは生り申さず、そのようにいって、作左衛門が砕いた、と」
天下人であった信長が斃れ、いまや家康は三河・遠江に駿河・甲斐。信濃を加えた「海道一の弓取り」となっている。(まかり間違えば、天下を治めることも・・・)。誰にも口にしたことはないが、それを考え始めていた。それは楽しい空想であったが、恐ろしくもあった。だから、家康には作左衛門の言葉が突き刺さった。明らかに、作左衛門は、天下を治めることについての理念を語っている。どうも、それは、これまで家康が経験し実践してきたものとは異なるらしい。暴力と恐怖。これでしか、人々の放埒を押しとどめることはできない。この釜を見せしめにつかってみようと考えたのだが、作左衛門が、その釜を打ち砕いてしまった。釜を打ち砕いただけでなく、作左衛門は「強ければ従い、弱ければ叛く」という家康のこれまでの政治上の理念まで打ち砕こうとしている。天下を治める理念は、そういうものとは違う。作左衛門は、そういう途方もない哲学的命題を、家康の胸につきつけてきた。その作左衛門をいかに処罰するか・・・。家康はいま、それを考えている。家康は口をひらき、作左衛門に処分を言い渡した。
「作左衛門。過日、安倍川の煎人釜をはこべ、と命じたのは、わしの間違いであった。昨日、そのほうが、釜をこわして途中でいった口上は奉行からきいた。わしの間違いに、気づいてくれたこと、かたじけなく思う。この後も、なお、頼みに存ずる」 咎めなし。
作左衛門は、片目がつぶれた顔を家康にむけ、火傷のあとがのこる拳を握り締めて、大声でいった。「かかる尊慮にあらせられなば・・・国家は万代不易に候」。その声は、浜松城の殿中にこだまし、強く、そして重々しく、響いた。
家康が天下を取ったのは、このときから数えて、およそ二十年後のことである。その天下は本田作左衛門が「万代不易」と予言したように、永くつづいた。
ただ、家康が天下人になったとき、作左衛門はもうこの世にいなかった。
・われわれは、殿様ではない。殿様ではないけれども、地球規模でみれば、日本人は、とても人類普通の生活をしている人々とはいえないのもたしかである。どうやら、われわれは、自分たちが思っている以上に、この世界について、大きな影響をおよぼしている人々なのかもしれない。
この国の人々は、この世界にたいして、何ごとかができるほどの大きな責任をもっているなどと、大上段にかまえてしまうと、少々、げんなりしてしまうが、二百年以上もまえに、はじめて現代人と同じような生活を経験してしまった人々の伝記を書きおえて、私が思い至ったのは、なぜか、そのことであった。
感想;
おもしろかった。
歴史がイキイキとしてくるのを感じました。
赤穂浪士の仇討。
加賀百万石の前田家がなぜ取り潰されなかったのか。
前田家は関ケ原の合戦の報奨として、四国全体の転藩を言われたが断っているとのこと。
四国に移っていたら、日本の歴史も変わっていたかもしれません。
四国は加賀よりも国を豊かにできる可能性が大きかったので。
それにしても、徳川家康はしたたかなかつ優れた知能の持ち主だったようです。
・おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたもの
・元禄三(1690年)ごろに書かれたもので、当時の大名243人の人物評価を載せた稀有な書物であること
・現存するのは東京大学史料編纂所所蔵の一冊だけである
・水戸黄門
中国では黄色は皇帝の色で、宮廷の門は黄色に塗ってあった。その黄色い門のうちを支配する役職が、黄門侍郎で、日本では、中納言がこれにあたるとされた。
・「通信簿」をみるかぎり、光圀の成績は、悪くない。家来にも領民にも憐み深く、気前のいい殿様で、みな安心している。一応、そう書かれている。「土芥寇讎記」の大名評価は辛辣なものが多く、光圀のように「善政」をたたえられる大名は少ない。
・一藩に13人の藩主がいて、藩の数は約250。13×250=3250.つまり「大名の経験者」は三千人以上いた。
・「足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す」。吉良家は足利の子孫である。そのため、吉良家は「高家」となり、破格の優遇をうけた。ひとえに血統の良さによる。高家は禄高は少ないが、官位はずば抜けて高い。吉良家の家禄はわずか4200石にすぎない。ところが、吉良上野介の官位は、恐ろしく高い。従四位上・左近衛権少将という破格のものであった。「浅野内匠頭の従五位下と、たいして変わらないのではないか」。あるいは、そう思われるかもしれない。たしかに、吉良の位階は、浅野より三ランク高いだけである。しかし、この三ランクの差は大きい。天と地ほどの差である。当時、加賀百万石の前田綱紀と位と同じであった。つまり、4200石の旗本吉良家は、百万石の前田家と位のうえでは同格だったのである。江戸城のなかで、大名の席順は、石高でなく官位できます。そのため、「官位」は、大名の最大の関心事になっていた。吉良上野介が、赤穂五万三千石の浅野内匠頭を馬鹿にしきっていたのは、ひとえにこの官位の差によるものであった。おそらく、吉良は内匠頭を遠慮なく罵倒したのであろう。そして、あの刃傷事件がおきてしまったのである。
浅野がこだわり、一歩も譲らなかった「自意識」とは、城持大名という強烈な誇りであった。
・内匠頭は「昼夜、閨房にあって、(女と)たわむれ」とあるように、昼間も「奥」にひきこもって出てこず、奥向きのおなごと、いちゃついている。当然、政治にはならない。それで「政道は幼少の時より成長の今に至るまで、家老の心に任せている」というように、結局、家老の大石内蔵助らが政治をみていた。「内匠頭が閨房で女と戯れ、ちっとも政務に出てこない。仕方なく、大石が筆頭家老として藩政を取り仕切っていた。それで、藩士は大石の言うことをきく習慣ができていた」とういうことも考えられるのである。「殿さまの通信簿」は、最後に、内匠頭の人物評をまとめている。なかなか手厳しい。注目すべきことに、大石の態度についても激しく批判している。
内匠頭は「女色にふけるの難」があり、「婬乱無動」だと、はっきりいっている。そのうえ、このままでは「家を滅ぼす」という、恐ろしい預言まで残している。そして、批判の矛先は、大石たち家老に向けられている。「なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諫めないのか」ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を、不忠の臣として、名指しで批判している。
・江戸時代をはじめ、「名君」は四人いる。一人は水戸の徳川光圀、もう一人は金沢の前田綱紀、会津の保科正之、そして、岡山の池田光政である。いずれも儒学を好み、みずから藩政をみちびいて、治績をあげた。
・前田利家「絶対に、子のことを悪くいってはいけない。なかでも、他人のまえで自分の子を悪しざまにいうのが一番いけない」という。子どもに悪いところがあったら、「こうしたほうがよい」と、子ども本人に丁寧に教えてやればよいだけだ、というのである。親子が仲違いしてしまっては、元も子もない。
・「利長様はご自身で毒を飲まれた」 江戸時代、加賀藩では、この話は公然の秘密であった。前田利長は徳川との対決をさけるため、毒を飲んで自分の存在を消し、それで晴れて前田家は徳川方として豊臣攻めに加わることができた。加賀藩ではずっと、そのように信じられてきた。利長は父利家から「秀頼公を御守りするよう」に遺言されていた。(せがれ)利常は徳川から秀忠の娘を貰って婚姻関係があった。
・島津の兵力が大きいのは「兵農分離」というものが不完全で、たくさんの郷士がいたからである。延岡藩(内藤氏)は士族比率が全人口の3.44%である。ところがその南の高鍋藩(秋月氏)では18%になり、佐土原藩(島津氏)は35%、飫肥藩(伊東氏)では20%、宮崎県内の鹿児島藩領では31%となっていて、10倍ぐらい士族の比率がちがう。明治に士族の制度ができたとき、日本の士族の十人に一人は鹿児島藩士であった。
・家康が武田が残した人を煎るための釜を見つけ、背いたらこの釜で煎るぞと脅しのために活用しようと運ばせた。そこへ作左衛門が来て、この窯を粉々に打ち砕いた。奉行の話によれば、作左衛門は、釜を壊しながら、こう、捨てゼリフを吐いたという。
「帰って、家康公の申せ。釜で煎り殺すような罪人が出来るようでは、天下国家を治めることは生り申さず、そのようにいって、作左衛門が砕いた、と」
天下人であった信長が斃れ、いまや家康は三河・遠江に駿河・甲斐。信濃を加えた「海道一の弓取り」となっている。(まかり間違えば、天下を治めることも・・・)。誰にも口にしたことはないが、それを考え始めていた。それは楽しい空想であったが、恐ろしくもあった。だから、家康には作左衛門の言葉が突き刺さった。明らかに、作左衛門は、天下を治めることについての理念を語っている。どうも、それは、これまで家康が経験し実践してきたものとは異なるらしい。暴力と恐怖。これでしか、人々の放埒を押しとどめることはできない。この釜を見せしめにつかってみようと考えたのだが、作左衛門が、その釜を打ち砕いてしまった。釜を打ち砕いただけでなく、作左衛門は「強ければ従い、弱ければ叛く」という家康のこれまでの政治上の理念まで打ち砕こうとしている。天下を治める理念は、そういうものとは違う。作左衛門は、そういう途方もない哲学的命題を、家康の胸につきつけてきた。その作左衛門をいかに処罰するか・・・。家康はいま、それを考えている。家康は口をひらき、作左衛門に処分を言い渡した。
「作左衛門。過日、安倍川の煎人釜をはこべ、と命じたのは、わしの間違いであった。昨日、そのほうが、釜をこわして途中でいった口上は奉行からきいた。わしの間違いに、気づいてくれたこと、かたじけなく思う。この後も、なお、頼みに存ずる」 咎めなし。
作左衛門は、片目がつぶれた顔を家康にむけ、火傷のあとがのこる拳を握り締めて、大声でいった。「かかる尊慮にあらせられなば・・・国家は万代不易に候」。その声は、浜松城の殿中にこだまし、強く、そして重々しく、響いた。
家康が天下を取ったのは、このときから数えて、およそ二十年後のことである。その天下は本田作左衛門が「万代不易」と予言したように、永くつづいた。
ただ、家康が天下人になったとき、作左衛門はもうこの世にいなかった。
・われわれは、殿様ではない。殿様ではないけれども、地球規模でみれば、日本人は、とても人類普通の生活をしている人々とはいえないのもたしかである。どうやら、われわれは、自分たちが思っている以上に、この世界について、大きな影響をおよぼしている人々なのかもしれない。
この国の人々は、この世界にたいして、何ごとかができるほどの大きな責任をもっているなどと、大上段にかまえてしまうと、少々、げんなりしてしまうが、二百年以上もまえに、はじめて現代人と同じような生活を経験してしまった人々の伝記を書きおえて、私が思い至ったのは、なぜか、そのことであった。
感想;
おもしろかった。
歴史がイキイキとしてくるのを感じました。
赤穂浪士の仇討。
加賀百万石の前田家がなぜ取り潰されなかったのか。
前田家は関ケ原の合戦の報奨として、四国全体の転藩を言われたが断っているとのこと。
四国に移っていたら、日本の歴史も変わっていたかもしれません。
四国は加賀よりも国を豊かにできる可能性が大きかったので。
それにしても、徳川家康はしたたかなかつ優れた知能の持ち主だったようです。