・けれども、苦悩そのものが問題なのではない。「何のために苦悩するのか?」という叫びに答えないことが問題なのである。(フリードリッヒ・ニーチェ)
・私たちがロゴセラピーと名づけているものの関心は、ロゴスを心理療法に取り入れることにあります。そして私たちが実存分析と名づけているものの課題は、実存を心理療法に取り込むことにあります。心理療法がロゴスを顧慮するとは、意味と価値を顧慮することと同じ意味です。心理療法が実存を自省するとは、自由と責任を自省することと同じ意味です。意味と価値を顧慮するは、存在当為(あるべきこと)を顧慮することと同じです。そして、自由と責任を自省するとは、存在可能(ありうること)を自省することと同じです。
・ロゴセラピーと実存分析はいずれも「精神的なものに定位された」心理療法ですが、その限りこの両者は、片や「精神的なものから」の療法としてのロゴセラピー、片や「精神的なものに向かって」の分析としての実存分析に分けられます。ロゴセラピーが精神的なものから出発するのに対して、実存分析は精神的なものへ向かいます。
・心理療法をロゴセラピーと取り替えることは可能ではありませんが、心理療法をロゴセラピーによって補完することは必要です。
・ベータ―・R・ホーフシェテッター「心の三つの法廷はそれぞれ、その弁護人となる心理療法家を見出した。エスはフロイトを、自我はアドラーを、超自我はC・G・ユング、R・アラースおよびV・フランクルを見出した」
・精神分析にとっては、つねに背後に何かがあります。ありとあらゆるものの背後に何かがあるのです。精神分析がつねに何かの仮面を剥ごうとしているのもそのためです。精神分析は本質的に「仮面を剥ぐ」心理療法なのです。
・宿命論的な態度の人は、衝動のせいに、無意識のせいに、エスのせいにして言い逃れをします。
・「政治とは、あらゆる策略(トリック)が許されているゲームである」(ヒトラー)
・自分の書かれていない内的な生涯史の決定的な章にいわばまだ修正を加えることが自分の力でできるとします。この格率を次の命法形式で言い表すことができるでしょう。「あたかも、あなたは今二度目の人生を生きていて、一度目は、今まさに自分がしようとしていうようにすべて間違ったことをしたかのように生きよ」。
・「汝があるとことのものになれ」(ゲーテ)
私が私自身になるということも重要なのです。
・「創造価値」「体験価値」「態度価値」
・「人間存在を『決断存在』と定義」(ヤスパー)
・「私はリトル病にかかっている。そして、この病気は私に課せられている。私はこの病気から何を生み出すのか、この病気から何を始めるのか、という問いの前に立たされている」。
・「自らの苦悩を踏み台とする者、さらに高きところを歩むなり」(ヘルダーリン)
・苦悩は業績であり、成長です。しかしまた苦悩は成熟でもあります。というのも、自分を超えて成長していく人は、自分自身へと成熟していくからです。そうです。苦悩の本来の業績とは、成熟過程にほかならないのです。
・人間とは、自分がどのような存在であるかをつねに決断する存在者です。動物のレベルにまで落ち込む可能性と同じほど、聖人的な生にまで高揚する可能性をも秘めた存在者です。人間は、なにしろガス室を発明した存在者です。しかし同時に、まさにそのガス室へと、毅然とした態度で、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら歩み入った存在者でもあるのです。これが要するに人間なのです。
・「神を信じるとは人生に意味があることに気づくことである」(ルートヴィトゲンシュタイン)
・自分に課せられた苦悩をどのように引き受けるか。「どのように」苦悩するかにこそ、「何のために」苦悩するかという問いに対する答えがある。
感想;
ロゴセラピーでは「人生から問いかけてくる。それにどう応えるか」によって、人生に意味が出てくると考えます。
その苦悩を踏み台にすることもできれば、苦悩に踏み倒されることを選ぶこともできます。
人生に意味があると思えば意味があり、意味がないと思えば意味がなくなってしまいます。
まさに、「人生からの問いかけ(苦悩も含め)」にどう応えるかなのでしょう。、