1937年、1975年生まれ。13年前親子初の同時襲名。
林家木久扇さんは60周年。
暗くなりがちな気持ちをお二人が吹き飛ばしてくれる。
今年60周年。入金で数える。たくさんグッズ作って、ロビーにいて売っている。
フィンランドの教科書に木久扇さんの親子の紹介。日本の一般的な家庭として。
孫に稽古をつけている。
孫のコタ君から聞いたこと。お父さんは優しい。バッティングセンターに連れて行ってくれる。
おじいちゃんは尊敬している敬語を使っている。靴ベラ取るとか内弟子みたいなことをやっている。
僕のおじいちゃんが学校で1+1=3とか言ってバカだどうと言われる。バカにされているのはいや。おじいちゃんは舞台に顔出すだけで笑いを取っている。いずれ自分も“笑点“に出たい。
思い出に残る曲、ウエストサイド物語より「TONIGHT」
家族でブロードウェイに連れて行ってくれた。毎年海外に。
日本にいる時は出かけると一週間くらいいない。
父親として印象に残らないといけないと思い、印象的な思い出を残そうと演出していた。
木久扇さんは幼い頃は父と離れ離れ。小学校4年で両親が離婚。その時にアイスクリーム売りを貧乏暮らしで家の大黒柱だった。売り上げのお金を母にあげると、母がにこっとしてくれた。それがとても嬉しかった。
漫画家の清水崑さんのところに弟子入りした。絵を描きながら台詞入れていくのだが、しゃべりながら入れていた。それをお手伝いさんが聞いて先生に話した。「漫画家は面白いマンガを描かないといけないけど、自分が面白くなっては」。ということで落語の三代目桂三木助師匠を紹介してもらった。三木助師匠が亡くなって林家正蔵師匠のところへ。そうしたら正蔵師匠の蔵と三木助師匠の木を貰って木久蔵と。
好きな言葉が“入金”。貧しい家庭を支えてきた。
木久蔵ラーメン店を開業した。バルセロナ店は大失敗。店長を半年日本で修行させたら、湾岸戦争で戦地に行ってしまった。おばちゃんがラーメンを作った。醤油とソースの区別もつかなかった。
中国進出のことで田中角栄さんのところへ相談に行った。3分とのことだったが、「私が中国へ行ったのはラーメンのために行ったのではない」とのことで怒られて15分だった。「ラーメン党は1万人います」。「票になるなら違う。その人は私を支援してくれるんだね。もっと早くそのことを言いなさい」と。田中角栄さんの物真似披露。
ゾウを海外で買った。ゾウPRしたら面白い。これを日本でやったらと思ったら、ゾウがワシントン条約違反で営業には使えなかったので来なかった。
落語はいろんな人の声色を出すもんではないと言われた。でもお客さんが喜んだらよいんだと思った。セリフの内容がわからないけど、サムライが怒っている印象を与える。大河内伝次郎の物真似を披露。
子どもの頃、“笑点”が父の仕事だと思っていた。手を挙げるのが仕事だと。もっと面白いことを言えるのにと思った。
高校の時に父の高座に初めて行った。父が出る前からすごい拍手が。そしてお客さんが涙を流して笑っている。すごいなと思った。ちゃんと期待に応えている。
父親の息子ということで周りが気を使ってくれた。また木久扇の息子だということで仕事を貰っていた。
父が大病、胃がんになった。父の後ろ盾がないと仕事を貰えないと思った。
「死んでしまうことがあるんだね」と言ったら、今「治ろうとしているだから」と言った。
笑点の収録も穴をあけなかった。看護師さんが一人付き添って病院から出た。
ここまでの気持ちで落語をやっているんだと感じた。
父が生きている間にきちんと上にいかないと行かないな。自己責任だから。
当時ネタは10位しかなかった。
それで小朝師匠のところへ行った。そして100古典落語を覚えた。今は130くらい。
私は5つ。でもお金になる5つ。
1回目は父と母の知り合いばかり。
受ける個所で受けないと観客は母の顔を見る。そうすると母は立って、お客さんに謝っていた。
父は噺家でなくても他の仕事でもできる。噺家は不器用な人が多い。
落語家に人間国宝などの肩書は要らない。この話をいくらで買ってくれるかだ。
感想;
林家木久扇さんの、常に笑いを取り、視聴者を楽しくさせる精神が旺盛でした。
最初は漫画家、それが落語家へ。
父親が人気者でも、自分に実力がないとやっていけない厳しい社会。
父親の胃がんでその厳しさを痛感して古典落語を100まで覚えたとのこと。
立川談志の弟子は古典落語を50覚えたら三つ目になれるということ。
100を覚えるのはとても大変だったと思います。
やはりその道を究めるには努力が必須なのでしょう。
それが楽しくできると良いのです。
そういう仕事を見つけることが大きいと思いました。
林家木久扇さんは60周年。
暗くなりがちな気持ちをお二人が吹き飛ばしてくれる。
今年60周年。入金で数える。たくさんグッズ作って、ロビーにいて売っている。
フィンランドの教科書に木久扇さんの親子の紹介。日本の一般的な家庭として。
孫に稽古をつけている。
孫のコタ君から聞いたこと。お父さんは優しい。バッティングセンターに連れて行ってくれる。
おじいちゃんは尊敬している敬語を使っている。靴ベラ取るとか内弟子みたいなことをやっている。
僕のおじいちゃんが学校で1+1=3とか言ってバカだどうと言われる。バカにされているのはいや。おじいちゃんは舞台に顔出すだけで笑いを取っている。いずれ自分も“笑点“に出たい。
思い出に残る曲、ウエストサイド物語より「TONIGHT」
家族でブロードウェイに連れて行ってくれた。毎年海外に。
日本にいる時は出かけると一週間くらいいない。
父親として印象に残らないといけないと思い、印象的な思い出を残そうと演出していた。
木久扇さんは幼い頃は父と離れ離れ。小学校4年で両親が離婚。その時にアイスクリーム売りを貧乏暮らしで家の大黒柱だった。売り上げのお金を母にあげると、母がにこっとしてくれた。それがとても嬉しかった。
漫画家の清水崑さんのところに弟子入りした。絵を描きながら台詞入れていくのだが、しゃべりながら入れていた。それをお手伝いさんが聞いて先生に話した。「漫画家は面白いマンガを描かないといけないけど、自分が面白くなっては」。ということで落語の三代目桂三木助師匠を紹介してもらった。三木助師匠が亡くなって林家正蔵師匠のところへ。そうしたら正蔵師匠の蔵と三木助師匠の木を貰って木久蔵と。
好きな言葉が“入金”。貧しい家庭を支えてきた。
木久蔵ラーメン店を開業した。バルセロナ店は大失敗。店長を半年日本で修行させたら、湾岸戦争で戦地に行ってしまった。おばちゃんがラーメンを作った。醤油とソースの区別もつかなかった。
中国進出のことで田中角栄さんのところへ相談に行った。3分とのことだったが、「私が中国へ行ったのはラーメンのために行ったのではない」とのことで怒られて15分だった。「ラーメン党は1万人います」。「票になるなら違う。その人は私を支援してくれるんだね。もっと早くそのことを言いなさい」と。田中角栄さんの物真似披露。
ゾウを海外で買った。ゾウPRしたら面白い。これを日本でやったらと思ったら、ゾウがワシントン条約違反で営業には使えなかったので来なかった。
落語はいろんな人の声色を出すもんではないと言われた。でもお客さんが喜んだらよいんだと思った。セリフの内容がわからないけど、サムライが怒っている印象を与える。大河内伝次郎の物真似を披露。
子どもの頃、“笑点”が父の仕事だと思っていた。手を挙げるのが仕事だと。もっと面白いことを言えるのにと思った。
高校の時に父の高座に初めて行った。父が出る前からすごい拍手が。そしてお客さんが涙を流して笑っている。すごいなと思った。ちゃんと期待に応えている。
父親の息子ということで周りが気を使ってくれた。また木久扇の息子だということで仕事を貰っていた。
父が大病、胃がんになった。父の後ろ盾がないと仕事を貰えないと思った。
「死んでしまうことがあるんだね」と言ったら、今「治ろうとしているだから」と言った。
笑点の収録も穴をあけなかった。看護師さんが一人付き添って病院から出た。
ここまでの気持ちで落語をやっているんだと感じた。
父が生きている間にきちんと上にいかないと行かないな。自己責任だから。
当時ネタは10位しかなかった。
それで小朝師匠のところへ行った。そして100古典落語を覚えた。今は130くらい。
私は5つ。でもお金になる5つ。
1回目は父と母の知り合いばかり。
受ける個所で受けないと観客は母の顔を見る。そうすると母は立って、お客さんに謝っていた。
父は噺家でなくても他の仕事でもできる。噺家は不器用な人が多い。
落語家に人間国宝などの肩書は要らない。この話をいくらで買ってくれるかだ。
感想;
林家木久扇さんの、常に笑いを取り、視聴者を楽しくさせる精神が旺盛でした。
最初は漫画家、それが落語家へ。
父親が人気者でも、自分に実力がないとやっていけない厳しい社会。
父親の胃がんでその厳しさを痛感して古典落語を100まで覚えたとのこと。
立川談志の弟子は古典落語を50覚えたら三つ目になれるということ。
100を覚えるのはとても大変だったと思います。
やはりその道を究めるには努力が必須なのでしょう。
それが楽しくできると良いのです。
そういう仕事を見つけることが大きいと思いました。