浅田真央選手が、トリノの世界選手権で優勝。金メダル。
キム・ヨナ選手とのライバル対決は、キム・ヨナ選手がコケてしまったため、いまひとつ盛り上がらなかったが、浅田選手のフリーの「鐘」は素晴らしかった。
オリンピックの放送で繰り返し見たためであろうが、僕にも「鐘」の世界に入り込めた。
この「鐘」というのは理解するのが難しいパフォマンスである。
たとえば「007」はわかりやすい。007とヨナ選手の可愛らしさですんなり世界に入っていける。
高橋大輔選手の「道」も、映画「道」を見ていれば、<人生>を表現しているんだなってことはわかる。すなわち、つまずき・苦悩の人生から歓喜の人生へというストーリー。
このストーリーで世界に入っていける。
でも「鐘」は?
世界に入り込みづらいから、どうしても技の完成度などに目が行ってしまう。
浅田選手はこれで何を表現したいんだろうと立ち止まってしまう。
「浅田選手はこれを楽しんでいるのか」と思い、やらされている感を感じる。
しかし、今回は完全に浅田選手のものになっているような気がした。
「鐘」が自分のものになっている。
歌手の尾崎紀世彦さんは、自分の歌「また逢う日まで」を歌うたびに新しい発見がある、と何かのインタビューで言っていた。
歌い込むとはそういうこと。
落語家は自分の持ち噺を高座で何度も話すが、毎回同じパフォマンスはない。
客の反応によっても違うし、演じているうちに新しい解釈が加わったりする。
演劇も繰り返し同じ人物を演じているうちに、人物像が深まっていく。
<芸の深さ>とはこういうことを言うのだろう。
そして今回の浅田選手にはそんなことを感じた。
「鐘」という曲を浅田選手は深く理解したのではないかと感じた。
現在のテレビは一回性のものばかりだ。
瞬間、瞬間で笑いが起こり、笑いが足され、そのまま消費されていく。
確かに「そんなの関係ねえ」や「グー」では、芸の深さもあったものではないが、浅い芸はやはり飽きられる。捨てられる。
繰り返し演じられて、どんどん深みが出て来るパフォーマンス。
繰り返し見られ、読まれて、新たな発見がある作品。
こういうエンタテインメントこそ、現在必要なのではないか。
キム・ヨナ選手とのライバル対決は、キム・ヨナ選手がコケてしまったため、いまひとつ盛り上がらなかったが、浅田選手のフリーの「鐘」は素晴らしかった。
オリンピックの放送で繰り返し見たためであろうが、僕にも「鐘」の世界に入り込めた。
この「鐘」というのは理解するのが難しいパフォマンスである。
たとえば「007」はわかりやすい。007とヨナ選手の可愛らしさですんなり世界に入っていける。
高橋大輔選手の「道」も、映画「道」を見ていれば、<人生>を表現しているんだなってことはわかる。すなわち、つまずき・苦悩の人生から歓喜の人生へというストーリー。
このストーリーで世界に入っていける。
でも「鐘」は?
世界に入り込みづらいから、どうしても技の完成度などに目が行ってしまう。
浅田選手はこれで何を表現したいんだろうと立ち止まってしまう。
「浅田選手はこれを楽しんでいるのか」と思い、やらされている感を感じる。
しかし、今回は完全に浅田選手のものになっているような気がした。
「鐘」が自分のものになっている。
歌手の尾崎紀世彦さんは、自分の歌「また逢う日まで」を歌うたびに新しい発見がある、と何かのインタビューで言っていた。
歌い込むとはそういうこと。
落語家は自分の持ち噺を高座で何度も話すが、毎回同じパフォマンスはない。
客の反応によっても違うし、演じているうちに新しい解釈が加わったりする。
演劇も繰り返し同じ人物を演じているうちに、人物像が深まっていく。
<芸の深さ>とはこういうことを言うのだろう。
そして今回の浅田選手にはそんなことを感じた。
「鐘」という曲を浅田選手は深く理解したのではないかと感じた。
現在のテレビは一回性のものばかりだ。
瞬間、瞬間で笑いが起こり、笑いが足され、そのまま消費されていく。
確かに「そんなの関係ねえ」や「グー」では、芸の深さもあったものではないが、浅い芸はやはり飽きられる。捨てられる。
繰り返し演じられて、どんどん深みが出て来るパフォーマンス。
繰り返し見られ、読まれて、新たな発見がある作品。
こういうエンタテインメントこそ、現在必要なのではないか。