平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

祝! 安倍晋三辞任~この辞任で一番よかったことは「安倍信者」がいなくなることだ!

2020年08月28日 | 事件・出来事
 首相の安倍晋三が辞任した。
 長かったなあ、この7年8ヶ月。
 これで少しは僕のストレスが減るだろうか?

 安倍政権の評価については、いろいろ書いているので、今回は見送るが、まあ『成果ゼロ』だよね。
「拉致問題」「北方領土問題」「デフレからの脱却」「GDP600兆」「出生率UP」なども成し遂げなかった。
 成し遂げたのは、
「実質賃金低下」や「国民ひとりあたりのGDPダウン」など、国民を貧乏にすることばかり。

 霞ヶ関の劣化も著しく、
「公文書改ざん」「公文書隠蔽」「公文書破棄」「忖度」「ウソ・ゴマかし」
 完全に三流国になってしまった。

 新しい首相にはぜひ上記の政治課題に真っ正面から取り組み、霞ヶ関をマトモな組織に復活させてほしい。
「拉致問題」は新首相のもとなら北朝鮮は話し合いに応じるだろう。
 よかったですね、拉致被害者家族の皆さん。
 あとは安倍と黒田が作りだした異次元の金融緩和による負債。
 新首相はこれにどう決着をつけるつもりかね?

 新首相は自民党から選出されるんだろうけど、もう利権政治はやめようよ。
 この国にはそれをやっている余裕がない。
 必要なことに十分な予算を投入して、現状の問題解決や未来の果実につなげる。
 これをやらないと、この国はどんどん衰退していくぞ。
 …………

 安倍晋三が辞めて一番よかったと思うのは『安倍信者』を一掃できることだ。
 彼らは気持ち悪いからね。
「安倍さんしかいない」「安倍さんは世界の首脳が認めるリーダー」
 そんなわけねえだろう?
 でも彼らにはこう見えているらしい。
 こうなると「支持」じゃなくて、もはや「信仰」。
「安倍さんがいないと中国が攻めてくる」
 というのも盲信で、コロナ対応で見られるとおり、彼は一番危機管理に向いていないリーダーだ。

 安倍信者はまさか「麻生太郎」「菅義偉」「岸田文雄」「石破茂」に鞍替えしないよね?
 安倍晋三に殉じて、ずっと温和しくしていてほしい。

 憲法改正も安倍のもとでおこなわれなくて、よかったよ。
「お父さんは違憲なの?」と自衛隊員の子供が泣くから憲法改正をする。
 こんな頭の悪い、情緒的な理由で憲法改正されたら、たまったもんじゃない。
 末代までの恥。

 というわけで、
 バカで、ウソつきで、権力を抑制的に使えない人物が辞めてくれてよかった!
 とりあえず、マトモな政治に戻ることを期待します!
 
コメント (8)
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「吾輩は猫である」を読む⑤~朗読して心地いい! 猫が餅を食って踊り出すシーンは「落語」だよね!

2020年08月28日 | 小説
 漱石の「坊ちゃん」が落語であると看破したのが、「声に出して読みたい日本語」などの著書をもつ明治大学の齋藤孝さん。
「坊ちゃん」の文体って、リズムがあって江戸前なんですよね。
 声に出して朗読すると本当に楽しい。

 同じことが「吾輩は猫である」にも言えて、こんな一説がある。
 猫が正月に餅を食べて踊り出すシーン(新潮文庫版P39)だ。

 煩悶の極(きょく)、尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、
 耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。
 考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。
 要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。
 ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。
 まず右の方をあげて口の周囲を撫で廻す。
 今度は左りの方を伸ばして口を中心として急劇に円を劃(かく)して見る。
 辛抱が肝心だと思って左右交(かわ)る交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。
 ええ面倒だと両足を一度に使う。
 すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。
 何だか猫でないような感じがする。
 猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻き廻す。
 前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。
 倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。
 我ながらよくこんなに器用に起(た)っていられたものだと思う。


 饒舌で自由で痛快な文章だ。
「煩悶の極」と漢語でリズムをつくり、
「振り損の、立て損の、寝かし損である」と韻を踏み、
「ええ面倒だ」と日常の言葉を取り入れている。
「何だか猫でないような感じがする」と話もあちこちに飛ぶ。

 この文章はゆっくり読んだらダメで、早口の落語の言い立てで読むと、猫の混乱ぶりがよくわかる。

 文学というと「読む」ものと思いがちだが、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」は「聴くもの」「朗読するもの」として作られている気がする。
 日本近代文学の「深刻」からもかけ離れていて、ナンセンスで、江戸時代の戯作や落語を思わせる。

「吾輩は猫である」は当時としては画期的な小説であっただろう。
 いや、落語や講談など「語りの演芸」が日常だった当時では、逆にこれが当たり前だったのかもしれない。

コメント (3)
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