平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

沢木耕太郎、東京五輪を語る~なんとかわいそうなオリンピックだろう

2021年05月16日 | 事件・出来事
 オリンピックと言えば沢木耕太郎さん。
 沢木さんはたくさんのスポーツ・ノンフィクションや
「オリンピア1936 ナチスの森で」
「オリンピア1996 冠<廃墟の光>」といった作品を書いている。

 そんな沢木さんは東京オリンピックについて、どう考えているのだろう?
 今週発売の週刊文春を読むと──

「私は、これまでいくつものオリンピックを取材してきた。
 そして、たとえそれがどの都市でされるどのような大会であろうと、
 オリンピックにおいてさまざまな競技を取材して書くということには
 常に心が躍るようなものがなかった」


 沢木さんの心が踊らない理由は次のようなものらしい。

「2020年の東京大会には、東京都民にとって意義が希薄なら、国民からの熱い支持もない。
 それは、ある意味で当然のことなのだ。
 最初は、かつて東京都知事だった人物の人気取りの放言に過ぎなかったものが、
 しだいに一人歩きするようになり、いつの間にか実体のないまま、
 都民の、国民の願望のようなものに祭りあげられてしまった」


「やがて苦しまぎれに東日本大震災からの『復興五輪』などというお題目が生み出されたが、
 開催地を東北にするというなら、ともかく、東京というのではまったく整合性がないことは歴然としており、いつの間にか霧散してしまった」


「次にはコンパクトでエコロジカルな大会にするというキャッチフレーズが叫ばれたが、かつて例を見ない巨額の費用がつぎ込まれることになって、それも破綻した」

 沢木さんはこのような理由で2020年のオリンピックに意義を見い出せなくなっていた。
 取材の依頼が来ても全部断っていた。
 しかし最近、食指を動かされつつあるようだ。
 それは、
「近代五輪の終焉」
「かわいそうなオリンピック」として。

「近代オリンピックはすでに自滅の道、滅びの道を歩み始めているような気がしてならない」

「それにしても、この二度目の東京大会ほど惨めなオリンピックは、かつてなかったかもしれない。
 負の要素があとからあとから噴き出して、降り注いでくる。
 中止になれば、その準備に費やされた莫大な金と労力が無になる。
 強行されたとしても、外国からの支持や支援は希薄な上に、
 国内においても国民ばかりか東京都民ですら熱い気持ちを向けられなくなっている。
 なんとかわいそうなオリンピックだろう」


「いま、そのかわいそうな二度目の東京オリンピックを前に、私はどのように対応したらいいのか迷っている。
 以前と変わらず、あくまで「大義」のない大会として黙って通り過ぎるのを見送ればいいのか、
 あるいは、惨めで哀れな大会だからこそ、最後まですべてを見届けてあげるべきなのか」


 かわいそうなオリンピックか……。
 沢木耕太郎さんの「かわいそうなオリンピック」のノンフィクションを読んでみたい気もする。
 商業主義のオリンピックは今回で転機をむかえるかもしれないな。

コメント (2)
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