臨終の噺家・笑満亭橋鶴(長門裕之)。
橋鶴の最期の望みは「そ○(←女性自身のことらしい)を見たい」。
そんな師匠の願いをかなえるために右往左往する弟子達。
坂口安吾が何かのエッセイで「絶望してビルから投身自殺をした人間でも、落ちる途中、ビルの窓から女性のきれいな脚が見えれば心ときめく」といったことを書いていたが、人間とはそういうものなんですね。
詰まるところは色と恋。
この橋鶴師匠も同じ。
死ぬ間際まで女性に執着している。悟りなんか程遠い。
それが逆に人間っぽい。
そんな師匠の願いをかなえてあげようとする弟子達も。
普通なら「何を馬鹿なことを」「いい歳をして」と一笑にふす所だが、彼らは真剣に真面目に何とかしようとする。
この作品を見て感じることは、<人間なんて愚行を繰り返して死んでいくんですよ><色恋に迷って死んでいくんですよ><それでいいじゃないか>ということ。
通常、通夜の席で語られるのは「故人はあんなに立派だった」「こんな業績を残した」といったこと。
だが、主人公達は違う。
先程のそ○の話や、駅でウンコを漏らした話、行きづりのエッチをしてこんな失敗をしたといった馬鹿話を延々と行う。
あたかも、そういった馬鹿話がたくさんあることが<人生の勲章>みたいな感じで。
通夜の席で、その人間がどのように語られるか。
これがその人間の人生。
「立派な方でした」と語られるのもいいが、「駅でウンコを漏らした」と笑われたり、「こんな熱い恋愛をした」と語られたりすることの方が、粋でカッコイイ感じがする。
僕の大好きな桑田佳祐さんの「祭りのあと」でもこんな歌詞がある。
♪野暮でイナたい人生を照れることなく語ろう
悪さしながら男なら粋で優しい馬鹿でいろ♪
<悪さする男><粋で優しい馬鹿>……まさにこの作品の主人公たちのことだ。
※追記
この臨終の「そ○が見たい」下りにはオチがある。
ネタバレになるので書かないが、自分の人生の最期にオチをつけられるとは、さすが噺家!
まさに落語のような人生。
橋鶴の最期の望みは「そ○(←女性自身のことらしい)を見たい」。
そんな師匠の願いをかなえるために右往左往する弟子達。
坂口安吾が何かのエッセイで「絶望してビルから投身自殺をした人間でも、落ちる途中、ビルの窓から女性のきれいな脚が見えれば心ときめく」といったことを書いていたが、人間とはそういうものなんですね。
詰まるところは色と恋。
この橋鶴師匠も同じ。
死ぬ間際まで女性に執着している。悟りなんか程遠い。
それが逆に人間っぽい。
そんな師匠の願いをかなえてあげようとする弟子達も。
普通なら「何を馬鹿なことを」「いい歳をして」と一笑にふす所だが、彼らは真剣に真面目に何とかしようとする。
この作品を見て感じることは、<人間なんて愚行を繰り返して死んでいくんですよ><色恋に迷って死んでいくんですよ><それでいいじゃないか>ということ。
通常、通夜の席で語られるのは「故人はあんなに立派だった」「こんな業績を残した」といったこと。
だが、主人公達は違う。
先程のそ○の話や、駅でウンコを漏らした話、行きづりのエッチをしてこんな失敗をしたといった馬鹿話を延々と行う。
あたかも、そういった馬鹿話がたくさんあることが<人生の勲章>みたいな感じで。
通夜の席で、その人間がどのように語られるか。
これがその人間の人生。
「立派な方でした」と語られるのもいいが、「駅でウンコを漏らした」と笑われたり、「こんな熱い恋愛をした」と語られたりすることの方が、粋でカッコイイ感じがする。
僕の大好きな桑田佳祐さんの「祭りのあと」でもこんな歌詞がある。
♪野暮でイナたい人生を照れることなく語ろう
悪さしながら男なら粋で優しい馬鹿でいろ♪
<悪さする男><粋で優しい馬鹿>……まさにこの作品の主人公たちのことだ。
※追記
この臨終の「そ○が見たい」下りにはオチがある。
ネタバレになるので書かないが、自分の人生の最期にオチをつけられるとは、さすが噺家!
まさに落語のような人生。
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