ピーター・セラーズが大好きで、彼の映画を追いかけて見ていた時期があった。
大爆笑の「ピンクパンサー3」から始まって、ピンクパンサーシリーズをすべて。「ピンクの豹」は脇役だったが見事に主役のD・ニイブンを喰っていた。そのクルゾー警部はやはりインパクトがあったらしく、彼が主役でシリーズになった。
その次は「博士の異常な愛情」。ひとり4役の名演だった。これでピーター・セラーズが大好きになった。
そして「チャンス」。喜劇俳優ピーター・セーラーズとは180度違う静かな演技。汚れのないきれいな心を見事に演じきった。
最後に見たのは「天才悪魔フーマンチュウ」だったと思ったが、これはあまり笑えなかった。
さて、そんなピーター・セーラーズへの想いが募って「ピーター・セーラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」(THE life and death of Pater Sellers)を見た。
実際のピーター・セーラーズは凄まじい人だったらしい。
まさにわがままな子供。
例えば、こんなエピソードがある。
新車を購入したピーター。ところが車に傷を見つける。彼は激怒してディーラーを呼びつけるが、長男のマイクが子供なりの気を利かせて、傷の上に白いペンキを塗り、「パパ直ったよ。レーシングカーみたいでカッコイイでしょう」と言う。
これに対してピーターはこんな行動をする。
マイクの部屋に入るとマイクのおもちゃを踏みつぶすのだ。
ピーターは言う。「大事な物を壊されたらどんなつらいか思い知らせてやる!」
こうしたピーターの性格形成には母親の影響があったらしい。
母親はだだをこねる子供のピーターに言われるままに従った。そして父親のような平凡な人生を送ってはいけないとピーターに過度の期待をかけた。その結果、ピーターは我慢や満足を知らない人間になった。
自分の思い通りにならなければ怒り出す。
満足をすることを知らないから、いつも何かを求めている。
それは彼の家庭もそうだった。
役者として実績を作り出した頃、彼には妻と子供ふたりがいたが、ソフィア・ローレンと共演し彼女のことに夢中になると、離婚を言い出す。「理由は家族よりソフィアのことを愛しているから」。一方、ソフィア・ローレンはピーターのことなど眼中にない。ピーターの勝手な思いこみ。結局、ソフィアと結婚できないと分かると、ソフィア・ローレンのカメラテスト用の代役と寝て、家庭に戻れば復縁を求める。
このようなピーターの行為は死ぬまで続く。
満足ができないから、結婚して一時、幸せになっても次の対象を求めてしまう。子供が出来て喜ぶ2番目の妻には下ろせという。理由は自分にとって今は俳優として重要な時期だから。
満足を得られない彼の想いは仕事でも同じだった。
彼は自分の当たり役・ピンクパンサーのクルーゾー警部が大嫌いでやりたくない。試写を見てひどい演技だと言う。世界中が彼のクルーゾーを求めているにも関わらず、彼はいつも違うという想いにとらわれている。
ピーターはそんな自分の苦しみをこう語る。
「自分はいろいろな役になりきることが出来る、役をとったら自分には何も残らない。スクリーンの中の自分は自分でない。自分を演じたい」
一体、ピーターの言う自分とは何であろうか?
自分はこうありたいという理想の自分がいる。
役者としても家庭人としても。
しかし、彼の理想ははるか彼方にあるから今の自分は嘘でしかない。つまらない役、面倒くさい妻やまわりに振り回されて理想の自分に近づけないことに癇癪を起こす。
まさに満足できない人間の悲劇である。
人は今の自分に満足できないと心は穏やかになれない。
最後、ピーターは自分がここから演じたい作品「チャンス」を製作・主演する。
製作費を稼ぐために「ピンクパンサー」にも出た。
「チャンス」を作ることが出来てやっと心穏やかになるピーター。
映画のラスト。
ピーターは「ピンクパンサー4」の相談に来たブレイク・エドワーズに会うことが出来ず、打ち合わせのレストランの中に入ることが出来ない。入ってしまえば、「チャンス」の心地よい達成感が覚めてしまうと彼は思ったのだろうか。
この映画「ピーター・セラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」を見て、自分がワクワクして見てきた作品にこんなエピソードがあったのかと驚かされる。
あんな完璧な喜劇役者が自分の仕事に満足していなかった。
「ピンクパンサー」に満足していなかった。
この作品を見た後で、ピーター・セラーズの作品を見たら、別の面が見えてくるかもしれない。
★追記
この作品には「博士の異常な愛情」を撮ったスタンリー・キューブリックが出て来る(もちろんキューブリック役の役者だが)。
ここでキューブリックはピーターをこう評する。
「彼は何もない空っぽだ。だからいろいろな人間になり切ることができる」
これは役者論としては面白い。
自分のない空っぽな人間が役者向きなのか?自分のある人間が役者向きなのか?
確かに役に自分を投影させる役者がいる。自分の歩んできた人生を見事に役柄に繁栄させる役者がいる。(作品はその人間の反映)
一方、何もないピーターの様な役者は?
役者論としてピーター・セラーズの作品を見るのも面白い。
★追記
この作品にはいくつかの表現手法があった。
1.役者がいきなりカメラ(観客)に向かって話し始める。
「実は私、彼の人生についてこう思うんですよ」みたいな感想を言う。
2.対峙して演じてきた役になる。
今まで話をして喧嘩してきた妻に、次のシーンでピーターが妻を演じるのだ。妻と同じ服装・かつらをつけて。
3.前のシーンについて感想を述べる。
8ミリカメラを回しているピーター。その撮ったフィルムを再生してコメントを述べる。
これらの効果も検証してみると面白い。
大爆笑の「ピンクパンサー3」から始まって、ピンクパンサーシリーズをすべて。「ピンクの豹」は脇役だったが見事に主役のD・ニイブンを喰っていた。そのクルゾー警部はやはりインパクトがあったらしく、彼が主役でシリーズになった。
その次は「博士の異常な愛情」。ひとり4役の名演だった。これでピーター・セラーズが大好きになった。
そして「チャンス」。喜劇俳優ピーター・セーラーズとは180度違う静かな演技。汚れのないきれいな心を見事に演じきった。
最後に見たのは「天才悪魔フーマンチュウ」だったと思ったが、これはあまり笑えなかった。
さて、そんなピーター・セーラーズへの想いが募って「ピーター・セーラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」(THE life and death of Pater Sellers)を見た。
実際のピーター・セーラーズは凄まじい人だったらしい。
まさにわがままな子供。
例えば、こんなエピソードがある。
新車を購入したピーター。ところが車に傷を見つける。彼は激怒してディーラーを呼びつけるが、長男のマイクが子供なりの気を利かせて、傷の上に白いペンキを塗り、「パパ直ったよ。レーシングカーみたいでカッコイイでしょう」と言う。
これに対してピーターはこんな行動をする。
マイクの部屋に入るとマイクのおもちゃを踏みつぶすのだ。
ピーターは言う。「大事な物を壊されたらどんなつらいか思い知らせてやる!」
こうしたピーターの性格形成には母親の影響があったらしい。
母親はだだをこねる子供のピーターに言われるままに従った。そして父親のような平凡な人生を送ってはいけないとピーターに過度の期待をかけた。その結果、ピーターは我慢や満足を知らない人間になった。
自分の思い通りにならなければ怒り出す。
満足をすることを知らないから、いつも何かを求めている。
それは彼の家庭もそうだった。
役者として実績を作り出した頃、彼には妻と子供ふたりがいたが、ソフィア・ローレンと共演し彼女のことに夢中になると、離婚を言い出す。「理由は家族よりソフィアのことを愛しているから」。一方、ソフィア・ローレンはピーターのことなど眼中にない。ピーターの勝手な思いこみ。結局、ソフィアと結婚できないと分かると、ソフィア・ローレンのカメラテスト用の代役と寝て、家庭に戻れば復縁を求める。
このようなピーターの行為は死ぬまで続く。
満足ができないから、結婚して一時、幸せになっても次の対象を求めてしまう。子供が出来て喜ぶ2番目の妻には下ろせという。理由は自分にとって今は俳優として重要な時期だから。
満足を得られない彼の想いは仕事でも同じだった。
彼は自分の当たり役・ピンクパンサーのクルーゾー警部が大嫌いでやりたくない。試写を見てひどい演技だと言う。世界中が彼のクルーゾーを求めているにも関わらず、彼はいつも違うという想いにとらわれている。
ピーターはそんな自分の苦しみをこう語る。
「自分はいろいろな役になりきることが出来る、役をとったら自分には何も残らない。スクリーンの中の自分は自分でない。自分を演じたい」
一体、ピーターの言う自分とは何であろうか?
自分はこうありたいという理想の自分がいる。
役者としても家庭人としても。
しかし、彼の理想ははるか彼方にあるから今の自分は嘘でしかない。つまらない役、面倒くさい妻やまわりに振り回されて理想の自分に近づけないことに癇癪を起こす。
まさに満足できない人間の悲劇である。
人は今の自分に満足できないと心は穏やかになれない。
最後、ピーターは自分がここから演じたい作品「チャンス」を製作・主演する。
製作費を稼ぐために「ピンクパンサー」にも出た。
「チャンス」を作ることが出来てやっと心穏やかになるピーター。
映画のラスト。
ピーターは「ピンクパンサー4」の相談に来たブレイク・エドワーズに会うことが出来ず、打ち合わせのレストランの中に入ることが出来ない。入ってしまえば、「チャンス」の心地よい達成感が覚めてしまうと彼は思ったのだろうか。
この映画「ピーター・セラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」を見て、自分がワクワクして見てきた作品にこんなエピソードがあったのかと驚かされる。
あんな完璧な喜劇役者が自分の仕事に満足していなかった。
「ピンクパンサー」に満足していなかった。
この作品を見た後で、ピーター・セラーズの作品を見たら、別の面が見えてくるかもしれない。
★追記
この作品には「博士の異常な愛情」を撮ったスタンリー・キューブリックが出て来る(もちろんキューブリック役の役者だが)。
ここでキューブリックはピーターをこう評する。
「彼は何もない空っぽだ。だからいろいろな人間になり切ることができる」
これは役者論としては面白い。
自分のない空っぽな人間が役者向きなのか?自分のある人間が役者向きなのか?
確かに役に自分を投影させる役者がいる。自分の歩んできた人生を見事に役柄に繁栄させる役者がいる。(作品はその人間の反映)
一方、何もないピーターの様な役者は?
役者論としてピーター・セラーズの作品を見るのも面白い。
★追記
この作品にはいくつかの表現手法があった。
1.役者がいきなりカメラ(観客)に向かって話し始める。
「実は私、彼の人生についてこう思うんですよ」みたいな感想を言う。
2.対峙して演じてきた役になる。
今まで話をして喧嘩してきた妻に、次のシーンでピーターが妻を演じるのだ。妻と同じ服装・かつらをつけて。
3.前のシーンについて感想を述べる。
8ミリカメラを回しているピーター。その撮ったフィルムを再生してコメントを述べる。
これらの効果も検証してみると面白い。
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