1995年3月20日、僕は仕事も遊びも絶好調の35歳、その16年後(3.11)に襲った信じられない現実、それが東北を中心に襲った東日本大震災である。
3.11、全国の方がこの数字に深い思いと悲しみの想いを持つ。
決して忘れてはならない、風化してはならないと心に決めたはずなのに・・・・。。
3年前の3月11日、そして今日までの日々、復興は未だ進んでいない。全国からの支援、ボランテイァの御苦労、頑張ってくれている方がたには大変に申し訳ないが、人の記憶と時の流れは、悲しくも無情な時間を刻んでいると感じた今日、3月20日の早朝でした。
新聞に目を通す、テレビを付ける、ラジオを聴く、目と耳からは残念ながら19年前の今日の3月20日の鮮烈なニュースは聴きとることが出来なかった。
未だ解決していない東京都内、地下鉄丸ノ内、日比谷線・・・・の事件。
化学兵器としての神経ガスを散布する卑劣ない事件、戦後最大のテロとまで言われたあの「地下鉄サリン事件」だ。
地下鉄の乗客、乗員を含めると13名の死亡だと記憶する。そして約6.000名が被害に直面したはずだ。
当時のショック、あり得ない現実を体験してしまった方の中には未だPTSDで苦しまれている方が大勢いると考えると、次々に発生する事件の裏側で風化してしまう怖さを感じました。
1995年3月20日、僕は当時務めていた会社の辞令により千葉市に開設する新事業立ち上げの為に東京に到着した。1995年3月20日のお昼頃と記憶している。
当日の朝8時頃に発生した謎の事件、僕が到着した時間でも確かな情報は得られない。
騒然とした東京から総武線で千葉市へ、荷物もなにも無い部屋にはTVもラジオも当時は携帯も無いので、状況を把握すら出来なかった。
悲しみを説いても解決することは無いと思う。でも悲しい出来事は風化させてはならないと政治家もマスコミも友達も口を揃えて言う。
悲しい出来事や映像を繰り返し流すのには作り手の信念が必要なのは分かっている。
あれから19年、今年大学を卒業された皆さんは当時3歳、記憶がある訳も無く時代は進む、だから伝えなければならない。
未だ不明の方、20年が経過しても何も終わっていない現実を伝える義務が、僕たちにも、現代を生きるこれからの人達にもあると思う。
あの日、あの時、あの時間、偶然にも遭遇した僕の独り言です。
頑張っている人に頑張れとは言えません、ゆっくり前へ、時に寄り道、立ち止まらなければ必ずゴールがある。そう信じたい、そんな19年前を想い出しつつ明日がすぐ近くに来ました。