3月8日 火曜日
お天気が良かったのかどうか解らない。曇っていたような気もしている。
母の顔を見に大森の実家に行きたいのですが、体調的に無理だと判断しました。
なんとか一瓶窯の仕事だけしに行きましたが、身体を真っ直ぐしているのが辛い状態でした。
仕事と趣味の違いはこのような時、はっきり知りました。
趣味でしたら、悶々としながら家でコロコロしていたのでしょう。
でも仕事ですから頑張って行ったのです。でも行って良かったのです。
家にいても寝てもいられませんし、気が紛れて良かったです。
帰宅してから一瓶窯の振り込み2件、郵便局と銀行で済ましてきました。
告別式のあとの方が疲れて動けなくなると思ったからです。
母がわたしのために庭から取ってきた蕗の薹です。
お庭の草刈りの人が蕗をみんな切ってしまったと言い、蕗の薹はあきらめていたのです。
ところが生えてきたと言ってとても喜んで居ました。それで母が収穫したのです。
柔らかくてとても美味しそうな蕗の薹です。母は看護士さんと一緒に収穫したそうです。
母が天ぷら、お浸し、蕗みそ等々蕗づくしを楽しみにしていました。
でももう母はわたしの料理を食べてくれることは無いのです。
この歳で完全徹夜をしてしまったのですから、立っているのも辛い・・・。
でも寝てもいられないのです。葬儀の事で電話があったり掛けたりと結構忙しいかったのです。
母の亡くなった日の雲や富士山の写真をアップしたくなりました。
こんな綺麗な空を見られたのは母のお陰です。母が亡くなったから東名を走ったのです。
母は雲を見ては、あの雲は犬のようだとか、人の顔のようだとか・・・良く言っていました。
雲を見ている時は必ず母を思ってしまいます。
何時もと違う感じの富士山と雲の写真です。
夕陽と富士山です。黄金色の夕陽が言葉に尽くせないほど美しかったです。
車の姿がほとんど見えない東名高速と山の端に沈む夕陽です。
雲と太陽の光が空の景色を刻々と変化させて行くのです。
この景色が母のところへ向かうわたしの気持ちを慰めてくれていました。母にも見せたかったです。
母の家から持ち帰ってきました荷物を片付けながら、ひたすら母を思っていました。
おやすみなさいの電話コールも、もうすることが無いのです。
弘前からも蔵王の樹氷からも、毎日「おはようコール」と「お休みコール」はしていました。
何時か、コールをしても母が電話口に出られなく日が来ることは承知していました。
それでもこんなに辛いのです。
あるじの時は、全く予測も有りませんし予知も無かったのです。
突然、2人ともいなくなってしまったのです。
わたしとしてはせめて別れの時、側にいたかったです。見守りたかったです。
お天気が良かったのかどうか解らない。曇っていたような気もしている。
母の顔を見に大森の実家に行きたいのですが、体調的に無理だと判断しました。
なんとか一瓶窯の仕事だけしに行きましたが、身体を真っ直ぐしているのが辛い状態でした。
仕事と趣味の違いはこのような時、はっきり知りました。
趣味でしたら、悶々としながら家でコロコロしていたのでしょう。
でも仕事ですから頑張って行ったのです。でも行って良かったのです。
家にいても寝てもいられませんし、気が紛れて良かったです。
帰宅してから一瓶窯の振り込み2件、郵便局と銀行で済ましてきました。
告別式のあとの方が疲れて動けなくなると思ったからです。
母がわたしのために庭から取ってきた蕗の薹です。
お庭の草刈りの人が蕗をみんな切ってしまったと言い、蕗の薹はあきらめていたのです。
ところが生えてきたと言ってとても喜んで居ました。それで母が収穫したのです。
柔らかくてとても美味しそうな蕗の薹です。母は看護士さんと一緒に収穫したそうです。
母が天ぷら、お浸し、蕗みそ等々蕗づくしを楽しみにしていました。
でももう母はわたしの料理を食べてくれることは無いのです。
この歳で完全徹夜をしてしまったのですから、立っているのも辛い・・・。
でも寝てもいられないのです。葬儀の事で電話があったり掛けたりと結構忙しいかったのです。
母の亡くなった日の雲や富士山の写真をアップしたくなりました。
こんな綺麗な空を見られたのは母のお陰です。母が亡くなったから東名を走ったのです。
母は雲を見ては、あの雲は犬のようだとか、人の顔のようだとか・・・良く言っていました。
雲を見ている時は必ず母を思ってしまいます。
何時もと違う感じの富士山と雲の写真です。
夕陽と富士山です。黄金色の夕陽が言葉に尽くせないほど美しかったです。
車の姿がほとんど見えない東名高速と山の端に沈む夕陽です。
雲と太陽の光が空の景色を刻々と変化させて行くのです。
この景色が母のところへ向かうわたしの気持ちを慰めてくれていました。母にも見せたかったです。
母の家から持ち帰ってきました荷物を片付けながら、ひたすら母を思っていました。
おやすみなさいの電話コールも、もうすることが無いのです。
弘前からも蔵王の樹氷からも、毎日「おはようコール」と「お休みコール」はしていました。
何時か、コールをしても母が電話口に出られなく日が来ることは承知していました。
それでもこんなに辛いのです。
あるじの時は、全く予測も有りませんし予知も無かったのです。
突然、2人ともいなくなってしまったのです。
わたしとしてはせめて別れの時、側にいたかったです。見守りたかったです。