14番常楽寺は「弘仁6年弘法大師四国巡錫の砌り、当地で弥勒菩薩の御来迎を拝し随喜の余り、直に感得の慈尊二尺六寸の尊像を彫り九間四面の中堂に安置し、四国霊場第十四番の本尊とし給うた」とあります。四国霊場中弥勒菩薩を本尊に安置するは唯一です。また流水岩の庭園も四国唯一とされます。
大体ここでお昼をいただくことが多いのです。
14番常楽寺から15番国分寺までは、道をまちがったので常楽園という孤児院に入り、道を尋ねました。小さい子供達がぞろぞろでてきて「今何時?」とか「その荷物重そうやからそこ座ってええよ」「どこからきたん?」などにぎやかに話し掛けてきます。 「国分寺なら連れていってあげるよ」という子もいましたが、先生が出てきて15番国分寺までの道を教えてくれました。歩きながら素朴で人懐っこい子供達がいとおしくなってたまりませんでした。その後、この施設は14番常楽寺のものだと分かり、孤児たちも御仏に守られていれば寂しさから救われ、この世の荒波にも耐えられるだろうと安心しました。
15番国分寺では中年の男の人が境内で待っていてクーラーボックスに入れた冷たいジュースをお接待してくれたうえに、ごみまでかたづけて頂きました。 しかしこれはビギナーズラックとでもいうべき出来事でその後はまったくそういう人は現れません。当寺は、阿波の国分寺として行基菩薩によって開基し、釈迦如来の尊像と大般若経を納め、本堂には、光明皇后の御位牌厨子(一尺七寸)を祀っているといわれます。かっては二キロ四方という広大な寺域があったと伝わりますがいまでは礎石がその片鱗を伝えているのみです。5年前くらいまでは境内はずっと工事中で仮屋で拝みました。
16番観音寺は聖武天皇の勅願道場として創立。 その後、弘仁7年(816)に弘法大師がこの地を訪れ、等身大の千手観世音菩薩を刻んで本尊として、 両脇侍に不動明王と毘沙門天を安置したと伝えられます。本堂には炎に包まれた女性の額が掲げられているが これは明治時代、姑を薪の燃え残りで叩いたことのある女性遍路に焚き火の火が燃え移ったが、周囲の人々に救出されたという事件があっりました。 女性は佛罰と深く反省し、この額を奉納したといいます。
次の井戸寺への道では酒屋に好物の甘酒がありましたが一升壜のままでなければ売れないといいます。あきらめて歩いていると2分もいかないうちに民家からおばあさんがでてきて「甘酒飲みますか?」と聞いてきました。
「大好きです。」とこたえると酒屋にあったのとおなじ1升壜の甘酒を冷蔵庫からだしてきてなみなみとコップに注いで下さいました。おいしい甘酒でした。これも不思議なできごとでした。
17番井戸寺のご本尊の七仏薬師如来は聖徳太子の作。 弘仁6年(815)にこの地を訪れた弘法大師は、8尺余り(約190cm)の十一面観世音菩薩や、十二神将四天王、 脇侍の日光菩薩と月光菩薩を刻んで安置された。この十一面観世音菩薩は榧の木の一木一体造りで、 国宝に指定されていたが焼失。また、杖で一夜のうちに井戸を掘られたところ、みるみる清水がわき出し 、水に映った御自分の姿を石に彫られた御尊像は、日限大師としてまつられています。
ここでは納経していただいたご住職とお接待談義になり「昔は境内に緋毛氈を敷いて接待したもんじゃ」とおっしやいました。
お接待について華厳経金剛憧菩薩品にはこうあります。
「菩薩摩訶薩若し飲を施す時はこのごとく回向すらく「この善根をもって一切の衆生をして法の甘露を飲みて菩薩の道を成じ、渇愛を除滅して常に大乗をねがひ五欲の愛を離れて浄法の愛を得しめ法身柔軟となり、三昧をもって心を調へ未だかって散乱せず、知恵の海に入りて大法の雲を興し、法の甘露を雨らしめん。
・・・これはこれ菩薩摩訶薩の飲を布施する時の善根回向なり。」
飲み物1つの接待にも一切衆生の成道を願うという願心をもてということでしょう。
翌日は朝早く宿を出て徳島市内を歩きました。朝靄の中、お墓参りの途中という女性が自転車を止めて話し掛けてきました。熱烈な恋愛のすえ再婚同士で結ばれたが結婚生活28年のうち23年を夫の看病で費やし、ついさきごろ見取ったばかりということでした。58歳だというのですが看病疲れか白髪で70くらいにみえます。しかし彼女は全く後悔していないと強調して去っていきました。そして別れ際この女は聞きもしないのに亡夫の名をいいました。そしてそれは何十年も会ってない北海道の私の叔父と全く同じ名だったのです。生前父は事故の続いたこの一家のことを心配し続けていたのです。そして自分は迂闊にもこの一家の名だけ忘れて回向簿に入れてなかったのです。 はっとして次の寺からこの一族も回向しました。父がこの一家の供養もするようにうながしたとしか思えません。
大体ここでお昼をいただくことが多いのです。
14番常楽寺から15番国分寺までは、道をまちがったので常楽園という孤児院に入り、道を尋ねました。小さい子供達がぞろぞろでてきて「今何時?」とか「その荷物重そうやからそこ座ってええよ」「どこからきたん?」などにぎやかに話し掛けてきます。 「国分寺なら連れていってあげるよ」という子もいましたが、先生が出てきて15番国分寺までの道を教えてくれました。歩きながら素朴で人懐っこい子供達がいとおしくなってたまりませんでした。その後、この施設は14番常楽寺のものだと分かり、孤児たちも御仏に守られていれば寂しさから救われ、この世の荒波にも耐えられるだろうと安心しました。
15番国分寺では中年の男の人が境内で待っていてクーラーボックスに入れた冷たいジュースをお接待してくれたうえに、ごみまでかたづけて頂きました。 しかしこれはビギナーズラックとでもいうべき出来事でその後はまったくそういう人は現れません。当寺は、阿波の国分寺として行基菩薩によって開基し、釈迦如来の尊像と大般若経を納め、本堂には、光明皇后の御位牌厨子(一尺七寸)を祀っているといわれます。かっては二キロ四方という広大な寺域があったと伝わりますがいまでは礎石がその片鱗を伝えているのみです。5年前くらいまでは境内はずっと工事中で仮屋で拝みました。
16番観音寺は聖武天皇の勅願道場として創立。 その後、弘仁7年(816)に弘法大師がこの地を訪れ、等身大の千手観世音菩薩を刻んで本尊として、 両脇侍に不動明王と毘沙門天を安置したと伝えられます。本堂には炎に包まれた女性の額が掲げられているが これは明治時代、姑を薪の燃え残りで叩いたことのある女性遍路に焚き火の火が燃え移ったが、周囲の人々に救出されたという事件があっりました。 女性は佛罰と深く反省し、この額を奉納したといいます。
次の井戸寺への道では酒屋に好物の甘酒がありましたが一升壜のままでなければ売れないといいます。あきらめて歩いていると2分もいかないうちに民家からおばあさんがでてきて「甘酒飲みますか?」と聞いてきました。
「大好きです。」とこたえると酒屋にあったのとおなじ1升壜の甘酒を冷蔵庫からだしてきてなみなみとコップに注いで下さいました。おいしい甘酒でした。これも不思議なできごとでした。
17番井戸寺のご本尊の七仏薬師如来は聖徳太子の作。 弘仁6年(815)にこの地を訪れた弘法大師は、8尺余り(約190cm)の十一面観世音菩薩や、十二神将四天王、 脇侍の日光菩薩と月光菩薩を刻んで安置された。この十一面観世音菩薩は榧の木の一木一体造りで、 国宝に指定されていたが焼失。また、杖で一夜のうちに井戸を掘られたところ、みるみる清水がわき出し 、水に映った御自分の姿を石に彫られた御尊像は、日限大師としてまつられています。
ここでは納経していただいたご住職とお接待談義になり「昔は境内に緋毛氈を敷いて接待したもんじゃ」とおっしやいました。
お接待について華厳経金剛憧菩薩品にはこうあります。
「菩薩摩訶薩若し飲を施す時はこのごとく回向すらく「この善根をもって一切の衆生をして法の甘露を飲みて菩薩の道を成じ、渇愛を除滅して常に大乗をねがひ五欲の愛を離れて浄法の愛を得しめ法身柔軟となり、三昧をもって心を調へ未だかって散乱せず、知恵の海に入りて大法の雲を興し、法の甘露を雨らしめん。
・・・これはこれ菩薩摩訶薩の飲を布施する時の善根回向なり。」
飲み物1つの接待にも一切衆生の成道を願うという願心をもてということでしょう。
翌日は朝早く宿を出て徳島市内を歩きました。朝靄の中、お墓参りの途中という女性が自転車を止めて話し掛けてきました。熱烈な恋愛のすえ再婚同士で結ばれたが結婚生活28年のうち23年を夫の看病で費やし、ついさきごろ見取ったばかりということでした。58歳だというのですが看病疲れか白髪で70くらいにみえます。しかし彼女は全く後悔していないと強調して去っていきました。そして別れ際この女は聞きもしないのに亡夫の名をいいました。そしてそれは何十年も会ってない北海道の私の叔父と全く同じ名だったのです。生前父は事故の続いたこの一家のことを心配し続けていたのです。そして自分は迂闊にもこの一家の名だけ忘れて回向簿に入れてなかったのです。 はっとして次の寺からこの一族も回向しました。父がこの一家の供養もするようにうながしたとしか思えません。