・13番大日寺
13番大日寺は焼山寺から遥か下に鮎喰川と散在する村落を見ながらおりていきます。だんだんに下って行って、県道21号線に合流し、鮎喰川と県道の間に建つ大日寺に着きます。12番からは20キロ以上あると思います。だいたいいつもここに着くときにはくたびれ果て足は棒のようになっています。
13番大日寺は、弘仁六年(八一五)弘法大師がこの地に巡錫され、護摩修法されているとき、大日如来が示現され「この地は霊地なれば一宇を建立すべし」と告げられました。そこで大師は大日如来を刻み、堂宇を建立し、この尊像を本尊として安置し、大日寺とされたということです。その後、諸国に一宮が建てられたとき、その別当寺として門前の一宮を管理することとなったといいます。道理ですぐ横に一宮神社があるわけです。一宮神社の本地仏は行基菩薩作の十一面観世音だったということですが、明治の神地分離にあたり、この十一面観世音を大日寺へ移し、本尊として安置したということです。このため、現在は大日如来は脇侍仏となっているという解説がありました。しかし澄禅「四国遍路日記」では「大日寺、一之宮松林の茂りたる中に立ち玉へり、前に五間ばかりのそり橋あり(今も一の宮神社にあります)拝殿は左右三間なり、殿格結構なり、本地十一面観音なり」とあり十七世紀からすでに十一面観音だったことがわかります。
繁田空山[四国霊験記]には「第十三番 本尊十一面観世音菩薩 秘仏作者不知
阿州名東郡南向ニテ大栗山華蔵院一ノ宮寺ハ大師ヨリ以前ノ開基也。大師此所ニテ大日如来之像を作玉フ。是ニ依テ大日寺ト云ナリ。今ノ本尊十一面ハ一ノ宮ノ本地仏也。一ノ宮ノ事ハ一本ノ一ノ宮ノ記ニハ大麻彦ノ神社ノ有ル板ノ郡ノ社ヲ当国ノ一ノ宮トセリ。然ルニ今コノ宮ヲ一ノ宮ト人ニ押テ号ス、異論ニ及ズ。コノ寺ノ奥院ハコレヨリ十八丁西ニ有。本尊ノ薬師如来ハ大師ノ御作也。聞持堂アリ。是女人ノ至ルヲ禁ズ。山上ニ瀧権現アリ、本地不動明王也。華蔵院ト云コトハ華ノ谷花ノ蔵ト云コトアリ、是ヲ以テ号トスト云ナリ。」 とあります。そして、ここの一の宮村の徳二と云う男が京都に商いに行くときに京の女性と言い交し女性に児ができたが女性は急な病で死んでしまった。遺言で「とゝさま、外に願いはござりませぬ、私しが死んだらこの死骸をあの東寺の境内に何卒葬り成し下され、亦その上に一つの御願は大日如来の秘密の都婆(塔婆)を頂き下され東寺の一老大阿闍梨に引導を御願い下され」と云うのでその通りにすると、女は幽霊となって生まれたばかりの子を連れて塔婆と共にこの一の宮村の徳二のところに飛んできて「先年初めて貴方と私しが交わりましたその時舎(やど)りし本相子なり。この倅は去年の冬極月八日の誕生なり。是れ即丑の年丑の月丑の日の丑の刻に出生し不思議やこれこそ法身の大日如来の申し子也。常々貴方が教えの如く阿毘羅吽欠(アビラウンケン)の秘密の陀羅尼、昼夜一心不乱にて祈念のこらした其仏徳あって生まれのままに成長致し、是れぞ誠の仏子故、コノ子を貴方に手渡しせねば私の心がすまぬ故遥々ここ迄参りました」といった、いう話を紹介しています。そしてこの子は長じてここ大日寺の「名高き都婆の大上人」と、なったと書いています。「佛説旃陀越國王經」には死した王女が墓の中で半身を朽ちさせずに留めて、生まれたばかりの赤子を養う話があります。母の子を思う気持ちはそれほど強いということでしょう。わたしも小学校の時母を失っていますが、今でも危機の時は亡母が守ってくれている気がします。学生時代に下宿で火事を出しそうになった時も亡母がでてきて私を揺り動かしてくれボヤを消せたことがあります。
ここで十七年には納経所にいた御住職らしき人が「ハワイ大学の学生が団体で遍路に来た。ハワイ大は授業の一環にしており毎年くる。」とおっしゃいました。そういえば高野山で会ったオランダの大学教授という人もオランダから学生を遍路に連れてくると言っていました。噂によると最近、ここ大日寺のご住職は亡くなられて韓国人の美しい奥様が跡を継いで居られるということです。以前納経をしてくださった方かもしれません。
3度目の逆打ちのときは13番横の遍路宿に泊まり6時前に特別に朝食を作ってもらい雨でぬかるむ道を、逆に難所の12番に向かって緊張しつつ出発したことを思い出します。
13番大日寺は焼山寺から遥か下に鮎喰川と散在する村落を見ながらおりていきます。だんだんに下って行って、県道21号線に合流し、鮎喰川と県道の間に建つ大日寺に着きます。12番からは20キロ以上あると思います。だいたいいつもここに着くときにはくたびれ果て足は棒のようになっています。
13番大日寺は、弘仁六年(八一五)弘法大師がこの地に巡錫され、護摩修法されているとき、大日如来が示現され「この地は霊地なれば一宇を建立すべし」と告げられました。そこで大師は大日如来を刻み、堂宇を建立し、この尊像を本尊として安置し、大日寺とされたということです。その後、諸国に一宮が建てられたとき、その別当寺として門前の一宮を管理することとなったといいます。道理ですぐ横に一宮神社があるわけです。一宮神社の本地仏は行基菩薩作の十一面観世音だったということですが、明治の神地分離にあたり、この十一面観世音を大日寺へ移し、本尊として安置したということです。このため、現在は大日如来は脇侍仏となっているという解説がありました。しかし澄禅「四国遍路日記」では「大日寺、一之宮松林の茂りたる中に立ち玉へり、前に五間ばかりのそり橋あり(今も一の宮神社にあります)拝殿は左右三間なり、殿格結構なり、本地十一面観音なり」とあり十七世紀からすでに十一面観音だったことがわかります。
繁田空山[四国霊験記]には「第十三番 本尊十一面観世音菩薩 秘仏作者不知
阿州名東郡南向ニテ大栗山華蔵院一ノ宮寺ハ大師ヨリ以前ノ開基也。大師此所ニテ大日如来之像を作玉フ。是ニ依テ大日寺ト云ナリ。今ノ本尊十一面ハ一ノ宮ノ本地仏也。一ノ宮ノ事ハ一本ノ一ノ宮ノ記ニハ大麻彦ノ神社ノ有ル板ノ郡ノ社ヲ当国ノ一ノ宮トセリ。然ルニ今コノ宮ヲ一ノ宮ト人ニ押テ号ス、異論ニ及ズ。コノ寺ノ奥院ハコレヨリ十八丁西ニ有。本尊ノ薬師如来ハ大師ノ御作也。聞持堂アリ。是女人ノ至ルヲ禁ズ。山上ニ瀧権現アリ、本地不動明王也。華蔵院ト云コトハ華ノ谷花ノ蔵ト云コトアリ、是ヲ以テ号トスト云ナリ。」 とあります。そして、ここの一の宮村の徳二と云う男が京都に商いに行くときに京の女性と言い交し女性に児ができたが女性は急な病で死んでしまった。遺言で「とゝさま、外に願いはござりませぬ、私しが死んだらこの死骸をあの東寺の境内に何卒葬り成し下され、亦その上に一つの御願は大日如来の秘密の都婆(塔婆)を頂き下され東寺の一老大阿闍梨に引導を御願い下され」と云うのでその通りにすると、女は幽霊となって生まれたばかりの子を連れて塔婆と共にこの一の宮村の徳二のところに飛んできて「先年初めて貴方と私しが交わりましたその時舎(やど)りし本相子なり。この倅は去年の冬極月八日の誕生なり。是れ即丑の年丑の月丑の日の丑の刻に出生し不思議やこれこそ法身の大日如来の申し子也。常々貴方が教えの如く阿毘羅吽欠(アビラウンケン)の秘密の陀羅尼、昼夜一心不乱にて祈念のこらした其仏徳あって生まれのままに成長致し、是れぞ誠の仏子故、コノ子を貴方に手渡しせねば私の心がすまぬ故遥々ここ迄参りました」といった、いう話を紹介しています。そしてこの子は長じてここ大日寺の「名高き都婆の大上人」と、なったと書いています。「佛説旃陀越國王經」には死した王女が墓の中で半身を朽ちさせずに留めて、生まれたばかりの赤子を養う話があります。母の子を思う気持ちはそれほど強いということでしょう。わたしも小学校の時母を失っていますが、今でも危機の時は亡母が守ってくれている気がします。学生時代に下宿で火事を出しそうになった時も亡母がでてきて私を揺り動かしてくれボヤを消せたことがあります。
ここで十七年には納経所にいた御住職らしき人が「ハワイ大学の学生が団体で遍路に来た。ハワイ大は授業の一環にしており毎年くる。」とおっしゃいました。そういえば高野山で会ったオランダの大学教授という人もオランダから学生を遍路に連れてくると言っていました。噂によると最近、ここ大日寺のご住職は亡くなられて韓国人の美しい奥様が跡を継いで居られるということです。以前納経をしてくださった方かもしれません。
3度目の逆打ちのときは13番横の遍路宿に泊まり6時前に特別に朝食を作ってもらい雨でぬかるむ道を、逆に難所の12番に向かって緊張しつつ出発したことを思い出します。