福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第十四章

2013-11-14 | 諸経
一 見られる対象と見る作用と見る主体と、これらの三つはおのおの二つずつである(見られる対象と見る作用、見る作用と見る主体、見る主体と見られる対象)。しかし、それらは相互に全面的に集合するには至らない。

二 貪りの汚れと貪り汚れる主体と貪られる貪られた対象もまた、そのように見られるべきである。そのほかのもろもろの煩悩も、またそのほかの一二の領域(一二処)も、この三つによって説明される。

三 甲と乙と【互いに異なったもの】が集合する(たとえば乳と水)。しかし見られる対象などは互いに異なった別のものではない。それ故に集合するには至らない。

四 そうして見られる対象などが互いに異なったものであることがありえないばかりでなく、いかなるものにとっても、いかなるものとも異なった別のものであることは、ありえない。

五 【互いに】異なったものである甲は乙に縁って異なったものとなっているのであって、異なったものがないならば、異なったものではありえない。甲に縁って乙があるならば、乙が甲と異なった別のものであることは、成立しえない。

六 もしも甲が乙と異なっているのであるならば、異なった別のものがなくても、異なったものとして【成立する】であろう。しかしその甲は乙なくしては異なったものではありえない。それ故にその異なったものは存在しない。

七 <異なったものであること>は、異なったもののうちには存在しない。異ならないもののうちにも存在しない。そうして<異なったものであること>は存在しないのであるから、<異なったもの>も存在しないし<同一のもの>も存在しない。

八 甲が乙と集合することはない。異なった二つのもの(甲と乙)が集合するということは、理に合わない。現在いま集合しつつあるものも、すでに集合したものも、集合する主体も存在しない。


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