大体いつも6番安楽寺で泊まるので朝早く起きて6番札所の裏を歩いて7番十楽寺を目指します。1キロほどなのですぐ着きます。早く着きすぎて朝7時の納経時間前になることがおおいのです。そういう時は本堂で理趣経を何度もあげて待ちます。お大師様は、ここ十楽寺で阿弥陀如来を感得、ご本尊とし刻まれたのが寺のはじまりで、人間のもつ八つの苦難(生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛)を離れ、十の光明に輝く楽しみ(極楽浄土に往生して受ける十種の楽)が得られるようにと、寺号を光明山十楽寺としたとされます。当初は現在地から離れた十楽谷の奥に広大な伽藍を擁していたが、天正年間の長曽我部元親の兵火ですべてを焼失したとされます。このとき住職の真然はご本尊を背負い、大門ケ原の小屋に仮安置し、弟子に経本を背負わせて避難させたが、その途中で矢に射られた弟子は経本を置いたまま逃がれたので経本も焼失したとされます。現在そのあとが経塚として残っているそうですが私はわかりませんでした。澄禅「四国遍路日記」にはここ十楽寺について「是も悉く退転す。堂も形ばかり。本尊阿弥陀如来も御頸ばかりなり」とあり17世紀頃は凄まじい状態であったことがわかります。しかし今は、楼門、本堂、大師堂、庫裏も新しくなっています。特に楼門は竜宮城の様で私が行をした高野山の真別所の門にも似ているような気がしました。庫裏の中のお手洗いをお借りしたこともありましたがホテルのトイレよりも綺麗でした。有難いことです。
本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多いといいます。7番十楽寺のホームページです「尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力をお祈りしたい。」
さきの繁田空山の「四国霊験記」には十楽寺の「十樂」について
「この札所では『己身の弥陀,唯心の浄土』の意味を教える為に、一より十までの弥陀の歌を佛が説示された。
・一向に南無阿弥陀仏の外はなし諸善万行無益なりけり
・二心なく頼めば救ふ弥陀なるに外を願ふはむやくなりけり
・三達の達磨大師も弥陀頼む凡夫非法はむやく成りけり
・四するには釈迦仏さへも逃れぬに現世の祈祷むやく成りけり
・五体には天地方角備へ置き才のよしあしむやくなりけり
・六根に罪も報いも南無阿弥陀自力の修行むやく成りけり
・七宝も命終われば捨てて行く此の世のはんえいむやくなりけり
・八万の宝蔵をしる人とても弥陀たのまづばむやくなりけり
・九徳には上下ぞなけれ念仏の外を願ふはむやく成りけり
・十悪も五逆も尽す他力船自力の願い無益なりけり
念仏の徳はこの通り10あるのでこの寺を十楽寺と名付けた」。とあります。
またこの念仏の功徳の証拠として
「昔文化二年(1805)乙丑三月廿五日の夜に、江戸表の御代官田村和泉守と申す方は常々念仏の信者にでこの十楽寺の御本尊を信仰せられていたが阿波国へ御下向成りしに、三月廿五日の夜丑満の刻限に阿州鳴戸北泊り辺にて暴風(はやて)吹き出し大浪と相成り、忽ち船は行き止まる。この時、船頭向ふの方をよくよく見れば山の如くに相見えければ、コリャコレ山際成りしと思えば亦山にはあらず。およそ二十間斗のこの船を只一口に呑み込まんとする故、船は矢の行く如く大なる魚の口中へ飛び入らんとする。この時船中の人数四十人ばかりは皆大声上げて泣叫ぶ。然るに代官和泉守ハ心動ぜず一心に十楽寺の本尊を祈念し玉ひ弥陀の名号を唱へ玉へバ皆同音にて念仏申す事真に一生懸命の念仏也。
然る所にあらあら不思議や水中の光る事日輪の耀く如く、この時大魚の主ハ一度弥陀の名号を聞きて即身成仏歓喜して忽ち形ハ相見えず、是則弥陀の光りにあやかりて三悪道の苦患を逃れて仏果菩提を得しと見え、その後、人を取り食わず、是念仏の功力なり。
この如くなる大難を逃れて一命皆助かりむや(撫養)の湊へ着致し船中残らずもとどり払い上下打ち連れ十楽寺の阿弥陀如来へ御礼と御本尊へ大供養。尚又田村和泉守は当寺の仏閣を残らず再建致されける。その後江戸へ帰国の致され念仏堂を建立して常念仏の講結び毎年阿波の七番へ三月廿五日にハ大施行を頼み置き永代供養の田地を寄納、四国八十八ヶ所へ御代参を立てられける。是ぞ誠の信者也。
にわかなる南無阿弥陀仏の一声に頼めば捨てぬ誓いなりけり
南む阿みだ思ひ込めたる念力ハ岩に花でも咲ぞふしぎや」
とあります。
本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多いといいます。7番十楽寺のホームページです「尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力をお祈りしたい。」
さきの繁田空山の「四国霊験記」には十楽寺の「十樂」について
「この札所では『己身の弥陀,唯心の浄土』の意味を教える為に、一より十までの弥陀の歌を佛が説示された。
・一向に南無阿弥陀仏の外はなし諸善万行無益なりけり
・二心なく頼めば救ふ弥陀なるに外を願ふはむやくなりけり
・三達の達磨大師も弥陀頼む凡夫非法はむやく成りけり
・四するには釈迦仏さへも逃れぬに現世の祈祷むやく成りけり
・五体には天地方角備へ置き才のよしあしむやくなりけり
・六根に罪も報いも南無阿弥陀自力の修行むやく成りけり
・七宝も命終われば捨てて行く此の世のはんえいむやくなりけり
・八万の宝蔵をしる人とても弥陀たのまづばむやくなりけり
・九徳には上下ぞなけれ念仏の外を願ふはむやく成りけり
・十悪も五逆も尽す他力船自力の願い無益なりけり
念仏の徳はこの通り10あるのでこの寺を十楽寺と名付けた」。とあります。
またこの念仏の功徳の証拠として
「昔文化二年(1805)乙丑三月廿五日の夜に、江戸表の御代官田村和泉守と申す方は常々念仏の信者にでこの十楽寺の御本尊を信仰せられていたが阿波国へ御下向成りしに、三月廿五日の夜丑満の刻限に阿州鳴戸北泊り辺にて暴風(はやて)吹き出し大浪と相成り、忽ち船は行き止まる。この時、船頭向ふの方をよくよく見れば山の如くに相見えければ、コリャコレ山際成りしと思えば亦山にはあらず。およそ二十間斗のこの船を只一口に呑み込まんとする故、船は矢の行く如く大なる魚の口中へ飛び入らんとする。この時船中の人数四十人ばかりは皆大声上げて泣叫ぶ。然るに代官和泉守ハ心動ぜず一心に十楽寺の本尊を祈念し玉ひ弥陀の名号を唱へ玉へバ皆同音にて念仏申す事真に一生懸命の念仏也。
然る所にあらあら不思議や水中の光る事日輪の耀く如く、この時大魚の主ハ一度弥陀の名号を聞きて即身成仏歓喜して忽ち形ハ相見えず、是則弥陀の光りにあやかりて三悪道の苦患を逃れて仏果菩提を得しと見え、その後、人を取り食わず、是念仏の功力なり。
この如くなる大難を逃れて一命皆助かりむや(撫養)の湊へ着致し船中残らずもとどり払い上下打ち連れ十楽寺の阿弥陀如来へ御礼と御本尊へ大供養。尚又田村和泉守は当寺の仏閣を残らず再建致されける。その後江戸へ帰国の致され念仏堂を建立して常念仏の講結び毎年阿波の七番へ三月廿五日にハ大施行を頼み置き永代供養の田地を寄納、四国八十八ヶ所へ御代参を立てられける。是ぞ誠の信者也。
にわかなる南無阿弥陀仏の一声に頼めば捨てぬ誓いなりけり
南む阿みだ思ひ込めたる念力ハ岩に花でも咲ぞふしぎや」
とあります。