福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

退歩の日々の心境

2013-05-25 | 法話

1、最近又も俗世の煩悩にからめ捕られたことがあり、つくずく法然上人や親鸞上人の教えが身近に感じられてならなくなりました。十善戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)すら一日たりとも守れてないのですから・・。釈雲照師は十善戒は一時でも守ればいいのである、とおっしゃっていますがなかなかそれすら難しいのです。



2、道元禅師の歌「世の中はまどより出るきさの尾の ひかぬにとまるさはり計りぞ」(道元禅師『傘松道詠』)

(「窓から外に出ようとした象が、尾が引っかかって出るに出られない」というように世の中はままならないことばかりだ。煩悩にとらわれていつまでも境地がすすないでいる。)や

3、西行さんの
「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ 我が身なりけり 」
「思い出づる 過ぎにしかたを はずかしみ あるにものうき この世なりけり 」などという歌がレベルは相当低いのですがそれなりにまさに見しみます。

4、歎異抄には
「十六 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきなば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。・・」とあります。すなわちいろいろ悪い心を起こしても仏様にお任せすれば大丈夫だといっておられるのでしょう。


5、法然上人、親鸞上人にも親しみを覚える今日この頃ではあります。
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