(「覚りと空」竹村牧男)「主体として考えられている「我」も、事物の構成要素として想定されている「法」もともに一切はなんら本体を持つものではなく、空・無自性でゆえに仮のもの、幻のようなものでしかない、」というのが大乗仏教の根本的な立場である。
一体なぜそのようにとなえられたのであろうか、私は、それは大乗仏教徒の禅定の内なる覚体験に根差してのことだったとみている。観佛体験と言ってもよいであろう。大乗仏教徒自身の覚りがこのことを説かしめたのである。
勿論、だからといって彼らがその理論的説明を放棄したというわけではない。「我法俱空」を語ることが実は大悲の連環という大乗仏教に固有の特徴的な立場を可能にしている。
我のみでなく法も空・無自性である(すべての出来事や存在に実体がない)ということはこのわれわれの世界のどんなものもじつは真に生まれたものでもないし、滅したものでもない、ということになる。すなわち本来生滅も去来もなくしたがって本来寂静であり本来涅槃にはいってるということである。つまりわれわれの生死の世界(つまり苦悩)も実は本来涅槃の世界そのものだったのである。逆に言えば我々は修行して悟りを開いたのちに殊更に特別な涅槃の世界に入らなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら自由に生死の世界へはいってしかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住処涅槃(単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩がそのまま転化され、慈悲となって働く積極的な悟りの世界)という世界がある。・・こうして我法俱空こそが大乗仏教を支えることが知られる。そこでは空とは悲用(大悲の働き)が完全に活動しうる原理そのものなのであった。・・(「覚りと空」竹村牧男)
しかし原理は分かっても「露の世は露の世ながらさりながら」というのが人情です。この苦悩してやまない「個」を「我法俱空」に立ちつつ加持祈祷に救済するのが密教です。
一体なぜそのようにとなえられたのであろうか、私は、それは大乗仏教徒の禅定の内なる覚体験に根差してのことだったとみている。観佛体験と言ってもよいであろう。大乗仏教徒自身の覚りがこのことを説かしめたのである。
勿論、だからといって彼らがその理論的説明を放棄したというわけではない。「我法俱空」を語ることが実は大悲の連環という大乗仏教に固有の特徴的な立場を可能にしている。
我のみでなく法も空・無自性である(すべての出来事や存在に実体がない)ということはこのわれわれの世界のどんなものもじつは真に生まれたものでもないし、滅したものでもない、ということになる。すなわち本来生滅も去来もなくしたがって本来寂静であり本来涅槃にはいってるということである。つまりわれわれの生死の世界(つまり苦悩)も実は本来涅槃の世界そのものだったのである。逆に言えば我々は修行して悟りを開いたのちに殊更に特別な涅槃の世界に入らなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら自由に生死の世界へはいってしかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住処涅槃(単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩がそのまま転化され、慈悲となって働く積極的な悟りの世界)という世界がある。・・こうして我法俱空こそが大乗仏教を支えることが知られる。そこでは空とは悲用(大悲の働き)が完全に活動しうる原理そのものなのであった。・・(「覚りと空」竹村牧男)
しかし原理は分かっても「露の世は露の世ながらさりながら」というのが人情です。この苦悩してやまない「個」を「我法俱空」に立ちつつ加持祈祷に救済するのが密教です。