48番西林寺から49番浄土寺までは、わすが3キロで1時間もかかりません。しかし、いつも49番近くで夕暮れになるので、たかの子温泉の「ホテル鷹ノ子」に泊まっていました。20年ころでしたか年の暮れにここにとめてもらったこともありました。年の暮れ、正月を家族で祝うために宿泊している人たちの間で、白装束で一人食事をするのはなにか溶け込めない雰囲気だった事を思い出します。しかしインターネットで調べると最近廃業したようで残念至極です。思い出多い宿だっただけにいいしれぬ寂しさを感じます。
49番浄土寺は天平年間(729~48)恵明上人の手によって開基せられ、孝謙天皇の勅願寺として盛時には、寺内八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもつ大伽藍であったとされます。澄禅「四国遍路日記」には「浄土寺、西林山吉祥寺と号す。三蔵院といふ。又近所八幡の別当を如来院と云ふ。この本堂零落したりしを遊西禅師といふ道心者十方旦那を勧って再興したるなり。堂の傍に祖師あり、善導大師の影像五体不具の像ども五,六体あり。」とあります。
この三蔵院というのは、浄土宗の開祖円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作の像があったところからそう呼ばれているそうです。御詠歌は「じゅうあくの わがみをすてずそのままに じょうどのてらへ まいりこそすれ」です。
天徳年間(957~60)には空也上人が三年とどまったとされています。
境内には子規の句「霜月の空也は骨に生きにける」が森寛紹元高野山管長の筆で彫られていました。
朝霧の残る薄暗い本堂のご本尊釈迦如来の前で一人般若心経をあげている時、ふとお釈迦様と空也上人ともに諸法皆空・・すべてのものはもとのもとのもとと、どこまでも無限に辿っていくと茫漠として捕らえ様のない世界にたどり着く・・を説かれたのだとおもいました。気が付くと青い綺麗な羽の鳥がお経に唱和してくれていました。後で図鑑でしらべるとルリビタキだったかもしれません。
鳥は古来人間にとっても大切なパートナーでした。
基督教では聖人は鳥に説法します。聖フランチェスコは小鳥に説法したとされますが、佛教では小鳥が人に説法します。『阿弥陀経』では浄土では六鳥が説法しているとされます。
「舎利弗、かの国には常に種々の奇妙雑色の鳥あり。白鵠(白鳥)・孔雀・鸚鵡・舎利(鷲鷺)・迦陵頻伽・共命鳥(一身二頭の鳥・共通の命)なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅の音を出だす。その音、五根(信、進、念、定、慧)・五力(信力・進力・念力・定力・慧力)、七覚支(念・択法・捨・精進・喜・軽安・定)、 八聖道分(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。」とあります。
お大師様も「後夜に仏法僧の声を聞く」で「閑林に独坐す草堂の暁、三宝の声一鳥に聞く、一鳥声あり人心あり、声心雲水俱に了了(鳥は法を説き(法宝)、人は仏心がある(仏寶))」とおっしゃっています。高野山真別所で加行していた時もいつも鳥の声に聴きほれました。その時『鳥声明』という言葉を教わりました。実際、朝皆で声明をあげていると必ず小鳥が唱和しました。懐かしく思い出します。
お大師様の「一鳥声あり、人、心あり」という句も遍路の山道で鳥の声を聞くといつも思い出します。
49番浄土寺は天平年間(729~48)恵明上人の手によって開基せられ、孝謙天皇の勅願寺として盛時には、寺内八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもつ大伽藍であったとされます。澄禅「四国遍路日記」には「浄土寺、西林山吉祥寺と号す。三蔵院といふ。又近所八幡の別当を如来院と云ふ。この本堂零落したりしを遊西禅師といふ道心者十方旦那を勧って再興したるなり。堂の傍に祖師あり、善導大師の影像五体不具の像ども五,六体あり。」とあります。
この三蔵院というのは、浄土宗の開祖円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作の像があったところからそう呼ばれているそうです。御詠歌は「じゅうあくの わがみをすてずそのままに じょうどのてらへ まいりこそすれ」です。
天徳年間(957~60)には空也上人が三年とどまったとされています。
境内には子規の句「霜月の空也は骨に生きにける」が森寛紹元高野山管長の筆で彫られていました。
朝霧の残る薄暗い本堂のご本尊釈迦如来の前で一人般若心経をあげている時、ふとお釈迦様と空也上人ともに諸法皆空・・すべてのものはもとのもとのもとと、どこまでも無限に辿っていくと茫漠として捕らえ様のない世界にたどり着く・・を説かれたのだとおもいました。気が付くと青い綺麗な羽の鳥がお経に唱和してくれていました。後で図鑑でしらべるとルリビタキだったかもしれません。
鳥は古来人間にとっても大切なパートナーでした。
基督教では聖人は鳥に説法します。聖フランチェスコは小鳥に説法したとされますが、佛教では小鳥が人に説法します。『阿弥陀経』では浄土では六鳥が説法しているとされます。
「舎利弗、かの国には常に種々の奇妙雑色の鳥あり。白鵠(白鳥)・孔雀・鸚鵡・舎利(鷲鷺)・迦陵頻伽・共命鳥(一身二頭の鳥・共通の命)なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅の音を出だす。その音、五根(信、進、念、定、慧)・五力(信力・進力・念力・定力・慧力)、七覚支(念・択法・捨・精進・喜・軽安・定)、 八聖道分(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。」とあります。
お大師様も「後夜に仏法僧の声を聞く」で「閑林に独坐す草堂の暁、三宝の声一鳥に聞く、一鳥声あり人心あり、声心雲水俱に了了(鳥は法を説き(法宝)、人は仏心がある(仏寶))」とおっしゃっています。高野山真別所で加行していた時もいつも鳥の声に聴きほれました。その時『鳥声明』という言葉を教わりました。実際、朝皆で声明をあげていると必ず小鳥が唱和しました。懐かしく思い出します。
お大師様の「一鳥声あり、人、心あり」という句も遍路の山道で鳥の声を聞くといつも思い出します。