三坂峠を越えて、何度も道を尋ね痛い足をひきずりつつ歩いているうちに文殊院という寺があらわれました。 入り口には「ここは八十八所発祥の地で大師が衛門三郎の子の供養とともに悪因縁切御修法をなさった有難い寺です。」とかいてありました。道に迷って苦労したお蔭で1回目にはお参りできなかった有難い別格札所第九番文殊院におまいりできました。
文殊院のすぐ先は47番八坂寺でした。47番にさきについてしまいました。
ここは毎回おなじように朱塗りの橋がでむかえてくれます。 17年秋には47番八坂寺には、数組のお遍路さんがおとずれていました。赤いリュックの女遍路が私の前に赤い橋を渡りました。その人の後ろから「遍路はもう少し地味な格好がいいのに」などど思いつつ入りました。ここは役の行者小角(神変大菩薩)開創です。大宝元年に第四十二代文武天皇の勅願寺として小千伊予守玉興公が、七堂伽藍を建立、弘仁六年お大師さまが八十八ヶ所の霊場に定められたということです。その後は、修験道の根本道場として栄え、紀州から熊野権現の分霊を移して十二社権現と共にお祀りし、「熊野山八坂寺」とよばれています。当山は修験道場のため開基以来、住職は代々八坂家の世襲ということです。澄禅「四国遍路日記」にも「八坂寺、熊野権現勧請なり。昔は三山権現立ち並び玉ふゆえに二十五間の長床にてありけると也。是も今は小さき社なり。」とあります。江戸初期からすでに小ぶりの伽藍になってしまっていたようです。
次の浄瑠璃寺までは10分ほどです。
46番浄瑠璃寺は17年のときはさわやかな初秋の風の中に多くの遠足の小学生が境内一杯にいてにぎやかだったのですが18年晩秋の小雨に煙る浄瑠璃寺はさむさにふるえつつおまいりしました。境内は閑散としていました。 少しの季節の違いで札所は全く別の顔になります。
46番浄瑠璃寺のご本尊は行基菩薩が刻まれた薬師如来、寺の創建は和銅元年(七〇八)です。薬師如来の浄土が浄瑠璃浄土であることから浄瑠璃寺と名付けたようです。後にこの寺を再興した尭音は、托鉢の浄財で岩屋寺から松山へいたる土佐街道の八力所に橋をかけ、松山寄りの立花橋が大水のたびに流出していたのを、岩国の錦帯橋の構造を研究し、架橋に成功したということです。立花橋の近くに尭音の供養塔が立っているということですが分りませんでした。四国のはてにもすごい人がいたものです。むかしの僧侶のこういう衆生済度にかける血のにじむような努力が宗教をささえてきたのです。翻って内心忸怩たるものをおぼえます。
次の48番西林寺までは4.5kmです。田んぼの中の細い道を歩き、それから車道に出ると着きます。18年末の48番西林寺は森閑として人の気配はありませんでした。
夕方やみ迫る中、近くの野焼きの臭いと紫色の煙が読経中の私のところまで流れてきます。
突然何十年も前の生家の山寺の境内にながれていた野焼きの煙が時を経てここにながれこんできたかのような幻想に陥りました。
48番西林寺は聖武天皇の勅願によって天平十三年(七四一)行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、一宮別当寺としたのが開創です。大同二年(八〇七)にはお大師様は現在地に寺を移し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として安置されました。大師は旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々に突いて清水の湧く水脈を発見されましたが寺の西南にある「杖の渕」はその遺跡だとされます。寺の周囲のいたるところに小川が流れていて「お大師さまのおかげで水だけは不自由しない」と地元の人々は杖の渕に修行大師像を奉安し感謝しているとガイドブックにありました。
文殊院のすぐ先は47番八坂寺でした。47番にさきについてしまいました。
ここは毎回おなじように朱塗りの橋がでむかえてくれます。 17年秋には47番八坂寺には、数組のお遍路さんがおとずれていました。赤いリュックの女遍路が私の前に赤い橋を渡りました。その人の後ろから「遍路はもう少し地味な格好がいいのに」などど思いつつ入りました。ここは役の行者小角(神変大菩薩)開創です。大宝元年に第四十二代文武天皇の勅願寺として小千伊予守玉興公が、七堂伽藍を建立、弘仁六年お大師さまが八十八ヶ所の霊場に定められたということです。その後は、修験道の根本道場として栄え、紀州から熊野権現の分霊を移して十二社権現と共にお祀りし、「熊野山八坂寺」とよばれています。当山は修験道場のため開基以来、住職は代々八坂家の世襲ということです。澄禅「四国遍路日記」にも「八坂寺、熊野権現勧請なり。昔は三山権現立ち並び玉ふゆえに二十五間の長床にてありけると也。是も今は小さき社なり。」とあります。江戸初期からすでに小ぶりの伽藍になってしまっていたようです。
次の浄瑠璃寺までは10分ほどです。
46番浄瑠璃寺は17年のときはさわやかな初秋の風の中に多くの遠足の小学生が境内一杯にいてにぎやかだったのですが18年晩秋の小雨に煙る浄瑠璃寺はさむさにふるえつつおまいりしました。境内は閑散としていました。 少しの季節の違いで札所は全く別の顔になります。
46番浄瑠璃寺のご本尊は行基菩薩が刻まれた薬師如来、寺の創建は和銅元年(七〇八)です。薬師如来の浄土が浄瑠璃浄土であることから浄瑠璃寺と名付けたようです。後にこの寺を再興した尭音は、托鉢の浄財で岩屋寺から松山へいたる土佐街道の八力所に橋をかけ、松山寄りの立花橋が大水のたびに流出していたのを、岩国の錦帯橋の構造を研究し、架橋に成功したということです。立花橋の近くに尭音の供養塔が立っているということですが分りませんでした。四国のはてにもすごい人がいたものです。むかしの僧侶のこういう衆生済度にかける血のにじむような努力が宗教をささえてきたのです。翻って内心忸怩たるものをおぼえます。
次の48番西林寺までは4.5kmです。田んぼの中の細い道を歩き、それから車道に出ると着きます。18年末の48番西林寺は森閑として人の気配はありませんでした。
夕方やみ迫る中、近くの野焼きの臭いと紫色の煙が読経中の私のところまで流れてきます。
突然何十年も前の生家の山寺の境内にながれていた野焼きの煙が時を経てここにながれこんできたかのような幻想に陥りました。
48番西林寺は聖武天皇の勅願によって天平十三年(七四一)行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、一宮別当寺としたのが開創です。大同二年(八〇七)にはお大師様は現在地に寺を移し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として安置されました。大師は旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々に突いて清水の湧く水脈を発見されましたが寺の西南にある「杖の渕」はその遺跡だとされます。寺の周囲のいたるところに小川が流れていて「お大師さまのおかげで水だけは不自由しない」と地元の人々は杖の渕に修行大師像を奉安し感謝しているとガイドブックにありました。