巻の三(巻二は欠損)
第十番武蔵國比企岩殿(現在も第10番は巌殿山正法寺(岩殿観音))
比企郡岩殿山正法寺は𦾔神仙遊栖の地にして、遠く塵境を阻て玄に人跡を絶の幽洞なり。壘嵒壁立て四望楼閣の如なれば、土人稱して岩殿山と云。常に奇雲山の頂を覆ひ、時に靈光艸林を照す。有信の者は稀に音樂を聞。亦遥かに諸天薩埵の影向を拝す。一時、精行の道人来たり、老若男女を教導して、四月より七月迄の間、心に信て一七二七日を限り、沐浴潔齊して、此の山に登り、年中の災悪を祓ふの事とす。此の善行終に土地の例式と成ぬ。是岩殿登陟の権與(はじめ)なり。今寶前に於いて長日行法の外に毎歳一夏の間、除厄の祈祷と稱して一百座の観音供養法を修することあり。是の古代の餘風なりと云。
𦾔記曰、人王四十二代元正天皇の御宇、養老年中、一の沙門あり。常に錫を飛ばし勝地を遊歴して、心の止る所に至ては、或は一旬二旬又は一月二月、心に任せて樹下石上に座し、誦經念佛して、去りぬ。若し人その名を問ふことあれば、答云、我此の苦海を逸れて浄土の彼岸に到んと欲す。是の故に暫く逸海と名くると。繫念一同西方の清刹にして、宲に苦修煉行の高僧なり。一時此嶺にて修行せしに、観音像形を現じて夢に告玉ふは、汝我土へ来んことを欣ふ。殊勝の善行なれども、自利の小心にして利他の大心に踈し。我は慈悲を以て身心とすれば、汝が所志とは方函圓蓋の齟あり。此の山は蓮華部の浄刹にして我分身影向の土なり。汝は近を捨て遠を望む。目を掩ふて明を求るに似たり。遄く我が四曼の像を造りて平等利益の方便を布くべしと。親り大悲の靈告を蒙り、倐ち
多年の疑氷解けて佛日の影我心水に現ず。頻に大悲の尊像を造り、此の岩殿に安置せんと欲す。斯て後は杜多(ずだ)の修行を止め、艸盧を締て正法庵と号し、日夜稱名三昧に住せり。或日行脚の道俗来り宿す。逸海喜び丁寧に飲食を設け、竟夜方外の清談を盡す。然に翌朝彼の三人の同行見へずして、千手観世音幷不動毘沙門の三躰座しける。不思議と云も尚餘あり。逸海上人、此靈像を感得して、倍す證道の修行堅固なり。尒しより結縁の貴賤群詣して忽ち郡郷無雙の巨藍となる。是岩殿山正法寺の濫觴なり。千手經に云、過去に於いて作佛し竟りて正法明如来と号す。大悲願力の故に現に菩薩と作る云々(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿
無礙大悲心陀羅尼經「已於過去無量劫中。已作佛竟號正法明如來。大悲願力。爲欲發起一切菩薩。安樂成熟諸衆生故現作菩薩」)。
𦾔記に曰、延暦年中、比企郡の山に悪龍すみ、多くの人物を損害す。夏日に氷雪を降し、陰寒に雷霆を震ふ。或は大風を起し、砂石を雨す。是の故に百穀不登、老若飢渇に及ぶ。又は父兄を失ひ子弟を奪はれ、その悲泣の聲、山野に止時なし。斯る民家の患黙止がたく、國司より京都へ聞達せり。ころは桓武天皇即位廿年(801)奥州の逆徒高丸征戮のため、坂上田村丸利仁公、征夷大将軍に任ぜられ、軍卒を具して東國に下向ある。其驛次富士の麓を經て玉川を渉り、武蔵野に出て、比企郡に向ふ。悪龍を退治し百姓の歎きを救んと、岩殿の西一里程にして陳を屯し、地理の分野を觀て信宿す。夫れより軍勢人夫を引率し山に上り谷へ下りて、方二三里を駈盡せども更に悪龍の所在を見ず。其の日諸軍勢、東の方野本の郷に宿す。(今此の野本の里の利仁山無量壽寺と云は坂将軍陳宿の所なり。原は野本寺と号す。境内に将軍塚あり。坂将軍を崇祠す)。斯て坂将軍岩殿に登り、千手観世音の前に稽首して、我今勅命を蒙りて悪龍を征駈す。かれ通力自在にして形を竄す。目に觸者は何なる強敵にても、我武術を以て征罸すれども、目に遮らざる者は凢力及がたし。若し大悲の威神力を假ずんば豈君命を不辱ことを得んと。至心に大悲者の冥助を祈念して、其の夜寶前に通夜し玉ふ。已に明星出る比に至って夢に一人の高僧来たり告て曰く、汝民家の為に心緒を労す。我力を添て悪龍を退治せしめん。明旦必ず其の瑞相を示すべしと。親り本尊の靈告を蒙れり。時は六月の始、金を蕩す炎暑に倐ち指を落とすの寒気起こり、卯の刻
(朝6時頃)より巳の刻(午前11時頃)に至りて瑞雪降積ること尺に餘れり。山野艸木一面に白妙となる。于今岩殿近郊にて六月朔日家毎に燎火を焼くことは昔悪龍退治の時、人夫雪中の寒気を凌し古例なりとぞ。坂将軍心身適悦して、是必ず大悲擁護の奇瑞ならん、去来打立んと諸卒を勇め積雪の皚皚(がいがい)たるを踏、比企山の嶺に攀陟る。坂将軍四方を望見玉ふに(今此の所を雪見峠と云)北山の半腹に雪の消えたる所あり。将軍怪み諸卒に命じ鐘鼓を鳴らして責寄れば、果して悪龍形を顕し、毒気を吐き人を害せん勢なり。然るに空中に垂髪の童子現れ、剣を振ふて是を防ぎ、又金甲の武将出て、兵杖を携えて彼を降伏す。時に将軍遥かに岩殿の方を拝念し、一殺多生の義箭を放つ。倐ち黒雲起て山を晦し、大雨塊を流し、猛風巨木を倒す。山震ひ谷鳴て軍勢神(たましひ)を飛ばす。少間あつて雲晴物静り、悪龍地に在て一箭に斃す。其長廿餘尋あり。是の功偏に岩殿観世音の利生なれば、将軍事實を奏聞し奉る。桓武天皇叡感浅からず、不日に伽藍建立の宣旨を賜ふ。此の時、大坊衆徒凢て六十餘あり。今岩殿の地名に寺号坊とあるは岩殿衆徒の𦾔跡なりと云。
坂上宿祢苅田麻呂の子、身長五尺八寸(177㎝)胸厚一尺二寸、目は蒼鷹の如く、鬚は金絲を編み、事有て而も身重は則ち二百斤(120K)軽くせんと欲すれば則ち六十四斤、心の欲する所に隨ふ。目を怒らし轉視れば則ち禽獣慴伏す。平居して談笑則ち老少馴親、毘沙門の化身にして而誓て我國を護ると云。五代桓武帝の時、征夷将軍と為り、奥州の両國を平ぐ。又平城帝五十一代、重祚の心有り、嵯峨帝五十二代、田村丸を使して之を防しむ。伊勢加茂及び諸神に祈り、冥助を乞ふ。鈴鹿山に關を置き、先帝と拒戦、大将藤原仲成を討取る。時に田村勢恰も数百萬の如く、山河動揺す。是神佛擁護力也。世に田村丸、鈴鹿の鬼神を討つとは、此の事の錯傳也。桓武帝の勅を奉はり、再び東夷を平ぐ。弘仁十二年(821)五月薨。壽五十四、贈従二位。山城宇治に葬る。其の後、江州甲賀郡土山里に正一位田村大明神と祠らる云々。続日本後紀幷塵塚物語、類聚國史、大系圖(諸氏の系図を集大成したもの。「尊卑分脈」など)等出ず。何も古今獨歩の勇将と云也。
巡禮詠歌「詣で来る浮世の人を洩さじと、誓の網をひきの岩殿」
浮世とは世間無常のことを、藻の流れに随て其の所を定めざるに喩ゆ。又憂世と書せば人間の八苦なり。洩さぬ誓とは、一切衆生を度し不尽ば、我正覚を不取と云、菩薩大悲の弘誓なり。網と云は、普く救ひ取に喩ふ。釣すれども網取らずの網の意なり。今苦海に沈む衆生を大悲の網にて浄土の岸へ引上げ玉ふと。比企の地名を網を引詞に取る。
𦾔記に曰、坂将軍伽藍經営の後、三百餘歳の星霜を經て、堂舎も漸く零落に及ぶ。然に御臺平政子二位の禅尼公、亡君頼朝公の志を嗣、當山観世音に帰依し、天下安全の御祈願として、正治二年(1200)の秋、殿堂御再営あり。倐ち一山𦾔觀に復す。尚亦外護の為として、左衛門督入道覺西在鎌倉にして岩殿兼別當たり。凭て彼の入滅後に至り、鎌倉政所の下知を得て、衆徒等追善の石碑を建る。金剛密迹門の傍に在る是なり。石碑に云、
「奉為當寺前別當左金吾禅門覚西。正嘉元1257丁巳の八月彼岸第三岩殿出離生死證大菩提所奉造立如件 衆徒敬白」
或人問、佛閣の惣門に両金剛の像あるを、俗に二王門と云、今金剛密迹門と云は奈んと。
答て曰、二王と云は本説なし。梵天帝釈の像あるを二天門と云。四天王の像あるを四天門と云。世流布の寺門の形像は金剛密迹なり。諸天傳に云、密迹金剛力士の像は其身を露袒、目を怒り、口を開き、徧體赤色にして頭上に髻有り、手中に杵を執て以て雙足を跣す。威勇猛徤なり、と。長阿含に云、佛の云、密迹力士、手に金剛杵を執り我が左右に在りと云々(佛説長阿含經卷第十三「密迹力士手執金杵在吾左右。即當破汝頭爲七分」。)大佛頂の中に云、金剛密迹諸眷属毎日毎夜常に守護す云々。釈門正統に云、毘奈耶律に云、給孤長者造寺後、念を作く、若し彩畫ずんば便ち端厳ならじと。即ち佛に白す、佛言、意に隨へと、未だ知らず何物をか畫ん。佛の言、門の両頬に於いて執金剛杖藥叉を畫くべしと。正法念誦經に云、昔國王の夫人あり、千子を生めり。當来成佛の次第を試んと欲し、拘留孫佛第一籌を探得たり。釈迦は第四籌乃至楼至は當千籌に當れり。第二の夫人、二子を生り。一りは、梵王と為って千兄の轉法を請ぜんと願ふ。次は密迹金剛神と為って千兄の教法を護らんと願ふ。維一人、今伽藍の門に状(かたち)して、二像と為るは夫れ應變無方の多きも咎無。又五分律に云、佛の四面に五百の金剛有りと。(四分律刪繁補闕行事鈔・僧像致敬篇第二十「執金剛菩薩常執金剛衞護。五分佛四面五百金剛也」)今、其の二を状する、疑ふべきことなし。又前文に云、門の両頬に於いて、執杖藥叉を畫けと(根本説一切有部毘奈耶雜事「佛言。長者。於門兩頬應作執杖藥叉。」)、又是也。谷響集第四に見ゆ。秘蔵記に云、諸寺の門に金剛の形像を造立する所以は如何。答、金剛は智なり。此の智、煩悩を摧滅すること、金剛の強力にして諸物を摧破するが如し。其れ心の實相門を開發するは智慧を以てするが故に、先ず門に金剛を立て、内に佛身を置く。佛身とは本来自性の理也。斯の理、智に照らされて、顕現することを以ての故に。
東寺杲宝の鈔に云、諸寺の門に金剛力士の像を安ず、人をして其の因由を知らしめんが為に一章を立て之を問答する也(大日經疏演奧鈔「諸寺大門金剛力士配之。本文可考之」)。大意の云、寺内に安ずる所の佛身は是理也。理は智を能入の門と為す。故に金剛の像を以て寺門に之を安んず。金剛は智なるが故也。凢そ社の前には鳥居を立て、寺前には金剛を安ず。各々其の表示あり。謂く、神は智を以て躰と為、佛は理を以て躰と為。理智互に能入所入と為故に、智に入るは理を以て門と為、理に入るは智を以て門と為す。鳥居は方形阿(梵字)字不生の理を表し、金剛は實智摧破の智用を表し、是の故に神前に鳥居を立つ。佛前に金剛を安ず也。聖徳太子天王寺御手判の縁起に云、三重の中門一宇、金剛像力士像と云云々。開口の像を金剛と名け、獨股金剛を持る故也。閉口の像を力士と名く。強力の相を示す故也。若し深秘の意に依れば、開口の像は阿字(梵字)を唱ふ。阿(梵字)は口を開く時聲を發するが故に。又阿字(梵字)は胎蔵、東曼荼羅を表す。故に此の像は東に居す。閉口の像はバン字(梵字)を唱ふ。バンは脣を合する時、聲を發するが故に。又バンは金剛、西曼荼羅を表す。故に此の像は西に居す。若し淺略に意に依れば、開は是實相の門を開く也。閉は悪趣門を閉じる也云々。
天正十九年(1591)二月下旬當寺の総門に二像俄かに失玉ふ。諸人怪しみ尋るに、明朝に至り元の如く立玉ふ。諸人不思議をなす所に、高麗郡中山郷の老若来たり。彼の二像を拝し供物を捧ぐ。比企郡の者其由を尋れば、中山の諸人答て曰く、天満宮の神事として毎年角力を催し神慮を慰む。然るに年々中山の者負て快からず。當年の角力には健勇角力とり二人来たり金剛兵衛と名乗、宵より明るまで一度も不負、中山の者、累年の耻を
雪む。二人皈に及んで何地の御方と尋れば、我等は比企の観音堂惣門の邊に住者なりと。倐ち消すが如く失玉ふ。是の故に此の二王尊なることを知り、恩を報ずぜん為に詣で来ると。各々語り侍りしと(當山利生記)。