福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その22

2014-05-22 | 四国八十八所の霊験
 15番国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が諸国に国家鎮護のために金光明四天王護国之寺建立の勅令を発し、行基菩薩が開基と伝えられています。当時は七重大塔を要した大伽藍であったとされます。当時も、日本と新羅とは国交断絶し、一方唐王朝も強大な勢力を誇っていました。こういう国際情勢の中、必至に国を守ろうとした聖武天皇の護国思想が痛いほど分ります。続日本紀にある天平十三年三月の国分寺建立の詔勅には「金光明最勝王経にはこの経を供養し広めれば四天王は国を守るとあるので・・」とあります。密教は元来護国精神の強い教えです。「弘法大師の護国精神 別所弘因(智山学報)」の引用です。「奈良朝における仏教の影響は偉大である。大陸芸術の消化と国家組織の完成とは実に仏教によってなされた。。・・東大寺、国分寺、国分尼寺等を初め数多の堂塔伽藍が建立せられ、それらの堂宇には盧遮那仏の分身仏等が安置せられた。かくして国民の信仰の帰趨はあきらかとなった。信仰対象としての東大寺、国分寺、盧遮那仏、分身仏等を考えると同時にうなずかれることは、かかる信仰を通じての国民思想の統一であり、その組織と相俟っての中央集権体制の強化であり、門閥政治の打破であった。このごとき信仰的立場と政治的意味の両面を発揮したところに奈良朝仏教の有する特色とその勢力の偉大さが存在する。・・この新時代の要求に答え且つ仏教本来の面目の発揮にまい進し、精神文化の指導にあたったところに、伝教、弘法両聖の尊い歴史的価値が把握されるのである。
元来弘法大師の理想は『即身成仏』『鎮護国家』にあった。すなわち人間完成の理想として即身成仏を提唱し、国家完成の目的として鎮護国家を標榜された。ここにこそ大師の日本仏教建設への大誓願が窺われるのである。
『即身成仏』『鎮護国家』の2つの理想は決して対立的な2つでなく、不二に立脚した而二であり、而二を表とした不二なのである。自己完成こそ国家成就への根本であり、即身成仏の理想を掲げる衆生の国土こそ密厳国土であり・・とせられた。かかる「鎮国安民」の仏教を提唱して新時代の要求に答え、その護国愛理の精神を普及徹底して国恩に報いることこそが大師終世の念願であった。しかもその第一歩を自己完成に求め、自己完成の中に国家完成を遂行していかれたところに大師の仏教の独自性が把握せられ、真の日本仏教建設者たるの意義がうなずけられるのである。・・・「物の心一つならず、飛沈性異なり。此の故に聖人、人を駆るに教網三種あり。いわゆる釈李孔なり。浅深隔てありといえども並びに皆聖説なり。若し一つの網にいりなば何ぞ忠孝にそむかむ。」(三教指帰)すなわち、出家することによって忠孝に生きることが大師の理想であった。人生への開眼によって苦悩に泣く衆生の魂を救済することこそ真に浄土の建設であり、国家の成就であると信じた。・・・ 御遺告には「ただ願わくは三世十方の諸仏我に不二を示し玉へと一心に祈る・・」かくのごとく不二を尋求することによって苦悶を脱せんとされた大師の所謂不二とはなんであったか。すなわちここに不二とはなんぞやの問題が生ずるのである。古来の先徳はこの不二に対して種々の答釈をくだしており、或いは大日経を不二というとし、あるいは釈論の不二なりとし、あるいは成仏不二なりとし、又は維摩経の不二とし、不二一心なりとし、両部不二なり等としておるが現在における一般の見解はこの不二は唯一無二なる最尊無上の法門であるとみるのが妥当のようである。すなわちこれを一段と穿つならば大師出家の動機よりしてもそれは成仏の経路を明示し、国家を完成し、護国の精神を涵養せる法門なのである。・・・
「国家の奉為に修法せんと講ふ表」(性霊集第四)に

「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐して遠く海西に遊ぶ。儻灌頂の道場に入て、一百余部の金剛乗の法門を授けらるること得たり。

其経は佛の心肝、國の霊宝なり。是の故に大唐開元よりこの己来、一人三公、親り灌頂を授けられて、誦持観念す。

近くは四海を安むじ、遠くは菩提を求む。宮中に長生殿を捨て内道場とす。復七日毎に解念誦の僧等をして持念修行せしむ。城中城外に鎮國念誦の道場を建つ。佛國の風範、復是の如し。

其の将て来る所の経法の中に仁王経・守護國界主経・佛母明王経(佛母明王大孔雀経)等の念誦の法門あり。佛、国王のために特に此の経を説きたまふ。七難を摧滅し四時を調和し、國を護り、家を護り、己を安むじ、他を安むず。此の道の秘妙の典なり。

空海、師の授を得と雖も未だ練行すること能くせず。伏して望むらくは、國家の奉為に諸の弟子等を率ゐて、高雄の山門にして来月一日より起首して法力の成就に至るまでに、且は教へ、且は修せむ。望むらくは、其の中間にして住処を出でずして、余の妨を被らじ。蜉蝣の心體羊犬の神識なりと雖も(かげろうのようにはかなく、羊犬のように劣った心の者でも)此の思ひ、此の願、常に心馬に策つ。

況や復た、我を覆ひ、我を載するは仁王の天地、目を開き、耳を聞くは聖帝の医王なり。報ぜむと欲ひ、答へむと欲ふに極りなく、際なし。伏して乞ふらくは、昊天款誠の心を鑒察したまへ。懇誠の至りに任へず。謹むで闕(宮廷)に詣でて奉表、陳請以聞す。軽しく威厳を触す。伏して戦越を深くす。沙門空海誠惶誠恐謹言  、弘仁元年十月廿七日 沙門空海 上表」とある。前に「薬子の乱」おこりて以来、民心の動揺せんことを憂へ、国内秩序の乱れんことを慮って「宝祚長遠」「国家安穏」を祈念せんために此の大法を厳修せんと決意せられたのである。・・・
「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」 にも「・・九月七日を取って聊か香華を設けて曼荼を供養す。九識の心王は乗連の相を凝らし、(胎蔵の諸尊は蓮華に座しておられ)五智の法帝は坐月の形を厳しくす。(金剛界の諸尊は月輪三昧に住しておられる)。点塵の身雲は本標をとって輻側し、・・若しは供、若しは讃すれば智宝福をあたう。(仏の智恵は人々に福をあたえる。)伏して願わくはこの功徳を廻らして仏恩を奉じたてまつらむ。国家を擁護し、悉地を剋証せむ。刹は妙楽の刹(密厳国土)に等しく、人は不変の人(大日如来)に同じからむ。・・・」として自己完成と国家成就の大願を明瞭に表現しておられる。」(「弘法大師の護国精神 別所弘因(智山学報)」の引用ここまで)

しかしここの国分寺は平安時代には早くも衰退、天正年間(1573~1592)には長曽我部軍の兵火に遭い焼失しています。「法性法親王四国巡行記」(1638)には「圀を分って立てる寺、壬生の小屋に異ならず」とあり、澄禅「四国遍路日記」(1653)にも「少なき草堂、是も梁棟朽ち落ちて仏像も尊体不具也、昔の堂の跡と見へて六七間四面三尺余の石とも並べて在り、哀れなる体なり。」とありますが、江戸初期の寛保元年(1741)に藩命により本堂再建を着手し天保年間(1830~1843)に大師堂が建てられています。宗派も法相宗から真言宗となった後、寛保年間(1741~1743)には曹洞宗に改められています。旧大師堂はH7に火災に遭ったということでその後毎回遍路の都度仮大師堂で理趣経をあげています。25年のときも改修中だったように思います。納経所横の立派な庭園は拝観有料となっており25年には境内の磐の上に乗って覗きましたが納経所の人に睨まれているような気がして早々に引き揚げました。

1回目のお遍路のときは境内にいた中年の男の人がクーラーボックスに入れた冷たいジュースをお接待してくれたうえに、私の持っていたごみまでかたづけて頂きました。はじめての遍路でしたからこんなに親切にしていただいていいものだろうかと本当にびっくりした覚えがあります。しかし翌18年の2回目遍路以降にはここにはだれもお接待する人はいませんでした。そして ここのむき出しになった礎石の立派さを見るたびに、在りし日の寺容の壮大さと現在の衰退した寺のギャップになんともいえない寂寥感を覚えたものです。どこも札所の歴史を見ると立派な威容を誇る期間よりもこうした退転した期間のほうが長いようにみえます。しかしこうして1200年も大寺院を守っていただいているだけでその有難さは筆舌に尽くせないものがあります。人間の力だけで守れたとは到底思えません。
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