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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その140

2014-09-17 | 四国八十八所の霊験
85番八栗寺から86番志度寺までは民家の間から志度湾を左に見ながら進みます。
86 番志度寺の手前には平賀源内の生家が保存されていました。
平賀源内はエレキテルなど発明の才が秀でていましたが52才で獄死しています。
 以前長野県松代の佐久間象山の記念館も見ましたが彼も53歳で暗殺されています。
彼の書も展示されていましたが奇矯でとても参考にはならないものでした。江戸末期の西洋技術に賭けたひとたちの凄惨な最後をみるにつけ索莫たる思いにとらわれるのは私だけでしょうか。平賀源内の生家には入りませんでした。

 86番志度寺は町の中にあります。
寺の掲示板によると、「讃王の時代、近江の凡(おうし)薗子(そのこ)が「見佛聞法」し、推古33年(625)年、観音浄土の瀬戸の入り口として十一面観音を新たに刻んで開創、亡母のため藤原不比等の次男房前が業気に法華八講の修法を営ませ4基の石塔に自ら写経して経塚に奉納したものが現在の海女の墓。
行基、最澄、大師、覚阿、阿一入道など修行」とありました。
近江の国の霊木が志度の浦に流れ着きそれを近江の凡(おうし)薗子(そのこ)尼が十一面観音に刻み堂を建て安置し、その後、藤原不比等が堂宇を建て志度道場としたということです。
 このいきさつは昔話「たまとり」にもあり日本中で語られていました。謡曲「海女」でもくわしく語られています。藤原不比等の子房前が舞台で述べます。「おん母は讃州志度の浦、房前ともうすところにて空しくなり給ひぬ・・急ぎかしこに下り、追善をもうさばやと思ひ候」。
志度に下った房前の前に海女姿の母の霊がでてきます。
海女の語ることをまとめるとこうです。唐の高宗皇帝から藤原不比等に送られた面向不背の玉(中に釈迦3尊が刻まれどこから見ても正面に見える)がここ志度の浦で竜神にとられてしまいます。
藤原不比等は取り返すため志度にくだり、海女と契りを結び子房前を設けます。

 房前を藤原家の跡取にすると約束された海女は身を挺して竜神から面向不背の玉を取り戻し自分の乳房を切った中に入れ引き上げられますが自らは竜神に切られ亡くなります。
母は「魂、黄壌(冥土)に去って十三年、・・冥路昏々たり、我をとぶらふ人なし、君孝行たらばわが冥闇をたすけよ。」と思いを房前に伝えます。
 それに対し房前は法華経の供養をします。法華経法師品の一節「寂寞無人声(ひっそりと人の声のしない、つまり一人でこのお経を唱えても仏はその人の前に輝かしい姿を現す)」と唱えると海女は「あらありがたやのお弔ひやな、このお経に引かれて五逆の達多(だった)は天皇記別を蒙り八才の龍女は南方無垢世界に生を受くる、なほなほ転読したもふべし。」(法華経の功徳で重罪を犯した提婆達多(だいばだった)も成仏することとなり、昔女性は成仏できないといわれていたが八才の龍の女の子は成仏できた。 なお法華経の要所を読んでください。)
この後法華経提婆達多品から龍女がお釈迦さまを讃える偈「深達罪福相(福徳ある所行と深遠な徳行を達成して)遍照於十方、微妙浄法身、具相三十二、以八十種(はちじゅうしゅ)好(ごう)、
(仏の微妙なお体は32種の吉相80種の福相により飾られている)天人所載仰(てんにんしょだいぎょう)、竜神(りゅうじん)咸恭敬(げんくぎょう)(天も人も仰ぐし竜神も敬する)」と読経すると海女は「いまこの経の徳用にて、天竜八部、人与、皆遥見彼、竜女成仏、さてこそ讃州、志度寺と号し、毎年八講、朝暮の勤行、仏法繁昌の霊地となるも、この孝養とうけたまはる。」(法華経の功徳によって自分(海女)は竜女になりさらに成仏できた。竜女の成仏は天竜八部、人など多くのものが見届けた。
この志度寺で毎年法華八講という法華経についての問答をする講座がひらかれるのも、ここが仏教の聖地となるのも私の霊を供養してくれたお蔭です。)といいます。
 矢印に導かれていくと海女の墓はたしかにありました。
花崗岩の五輪塔の墓は風化していまにも崩れそうでした。
近くに昭和26年におとずれた高浜年尾の句碑「盆にきて海女をともらふ心あり」がありました。境内では遍路姿の年寄り夫婦が休んでいました。

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