三密(身口意)の力
毎日修している秘法の中に「四無量観」という瞑想があります。これは密教修法には必ず入っているものです。最近ここを修していて改めて「三密加持」の力に、思い至りました。この修法のなかでは、「我が修する三密加持力により、生きとし生けるものが幸せでありますように」「我が修する三密加持力により生きとし生けるものが苦患から脱せますように」「我が修する三密加持力により、生きとし生けるものの願いが叶いますように」「我が修する三密加持力により、いきとしいけるものが悟れますように」と願うところがあります。
密教僧は他のどのような修法をしていてもこの「四無量観」の瞑想は入っていますから、密教僧は修法のたびにこうして生きとし生けるものの幸福を祈願しているわけです。
そんな甘いものではないぞ、現実には世界は一向に不幸から脱っすることができてないではないか、と思う向きもいるでしょう。しかし大師は『即身成仏義』 で「 六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり、 体 。四種曼荼(まんだ)各々離れず、 相 。 三密加持すれば速疾(そくしつ)に顕わる、 用 。重々帝網(たいもう)なるを即身と名づく、 無碍」といわれています。この言葉を信じて修行するのみです。
毎日修している秘法の中に「四無量観」という瞑想があります。これは密教修法には必ず入っているものです。最近ここを修していて改めて「三密加持」の力に、思い至りました。この修法のなかでは、「我が修する三密加持力により、生きとし生けるものが幸せでありますように」「我が修する三密加持力により生きとし生けるものが苦患から脱せますように」「我が修する三密加持力により、生きとし生けるものの願いが叶いますように」「我が修する三密加持力により、いきとしいけるものが悟れますように」と願うところがあります。
密教僧は他のどのような修法をしていてもこの「四無量観」の瞑想は入っていますから、密教僧は修法のたびにこうして生きとし生けるものの幸福を祈願しているわけです。
そんな甘いものではないぞ、現実には世界は一向に不幸から脱っすることができてないではないか、と思う向きもいるでしょう。しかし大師は『即身成仏義』 で「 六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり、 体 。四種曼荼(まんだ)各々離れず、 相 。 三密加持すれば速疾(そくしつ)に顕わる、 用 。重々帝網(たいもう)なるを即身と名づく、 無碍」といわれています。この言葉を信じて修行するのみです。