水原尭栄猊下は昭和40(1965)年9月25日遷化されています。昭和33年高野山金剛峯寺座主・高野山真言宗管長に就任されています。「高祖大師伝」「高野版の研究」「高野金石図説」「弘法大師影像図考(注1)」「邪教立川流の研究」、「金剛峯寺年中行事」「法談論議要集」「中院流四度次第」「伝法灌頂法則」「真如親王御伝」などを著されています。しかしなによりその御生涯を通じて不犯だったことを我々は思い出すべきです。(注2)。
(注1)注、「弘法大師影像」は福聚講のブログでも解説しています。)
(注2)司馬遼太郎も『空海の風景』で尭栄師が生涯不犯であった点に言及しています。この本は蟹が自分の甲羅ににせて穴を掘ったという見本のような本で噴飯物の本ですが、水原師のところは事実として司馬が会ったうえで書いているのでここだけは引用します。しかし司馬は堯栄と書くところを「堯舜」とかいています。これは司馬全集のなかの印刷間違いかとおもいますがそれにしても杜撰です。「水原堯舜(本当は堯栄)氏は物故されて久しいが高野山の歴とした学僧であった、私は幸い昭和二十五年の夏だったかに水原氏の寺の泊めてもらい、立川流の話をきいた。水原氏は色白のいかにも品のいい老僧でしかも一生不犯と言われた人だけに、この人が立川流の研究をされているということがなにやらふしぎなような感じもした。・・水原氏は立川流の要諦については具体的に語らず、座敷から庭のモリアオガエルの巣を指さして「まあ、ああおうものでありましょうな」と静かにいわれた・・」
(注1)注、「弘法大師影像」は福聚講のブログでも解説しています。)
(注2)司馬遼太郎も『空海の風景』で尭栄師が生涯不犯であった点に言及しています。この本は蟹が自分の甲羅ににせて穴を掘ったという見本のような本で噴飯物の本ですが、水原師のところは事実として司馬が会ったうえで書いているのでここだけは引用します。しかし司馬は堯栄と書くところを「堯舜」とかいています。これは司馬全集のなかの印刷間違いかとおもいますがそれにしても杜撰です。「水原堯舜(本当は堯栄)氏は物故されて久しいが高野山の歴とした学僧であった、私は幸い昭和二十五年の夏だったかに水原氏の寺の泊めてもらい、立川流の話をきいた。水原氏は色白のいかにも品のいい老僧でしかも一生不犯と言われた人だけに、この人が立川流の研究をされているということがなにやらふしぎなような感じもした。・・水原氏は立川流の要諦については具体的に語らず、座敷から庭のモリアオガエルの巣を指さして「まあ、ああおうものでありましょうな」と静かにいわれた・・」