佐伯 定胤師は昭和27年(1952年)11月23日85歳で遷化されています。法隆寺管主。大僧正。学士院会員。明治時代の廃仏毀釈で衰えていた唯識・法相の教えを再興した学僧です。 生涯肉食妻帯をしなかった方です。
十歳で法隆寺管主千早定朝の弟子として得度し京都の泉涌寺で佐伯旭雅に倶舎・唯識を学んでいます。この時、旭雅、五十七歳、定胤、十八歳でした。旭雅遷化後は定胤が泉涌寺で倶舎、清水寺で唯識の「百法問答抄」を講じたといいます。弟子には佛教大学学長・知恩院門跡の高畠寛我、同じく知恩院門跡の岸信宏、駒沢大学学長保坂玉泉、高野山大学学長中川善教(生涯清僧)、大谷大学の富貴原章信、真宗木辺派管長木辺孝慈、東大寺長老鷲尾隆慶、曹洞宗の沢木興道(生涯清僧)らがあり、法隆寺勧学院にはこのように各宗から多くの僧侶が学びに来ていたため、当時、法隆寺山内にある塔中寺院が寮に充てられたといいます。大正十五年には、島地大等・村上専精等に東大に招かれて「唯識三類境」(アーラヤ識の対象に三種の別があること)を講じています。昭和四年には 帝国学士院会員となります。昭和二十五年、法相宗を離脱し、法隆寺を本山に新たに聖徳宗を興しますがこれは、唯識の「五姓各別」説はすべての人びとの救いを説く聖徳太子の教え(例えば太子の勝鬘経義疏には「大乗と一乗と異なる所以は大乗は猶ほこれ三(声聞・縁覚・菩薩)のなかの別の名なれども、一乗は則ち三乗も二乗(仏性のない者がいると説く、声聞・縁覚)もなきの称なり。・・」として太子は無仏性の存在を認められていません。)
とは相入れないとし、聖徳太子の名を採って「聖徳宗」と改名したといわれます。
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