福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

蒙古襲来時の温故知新・・その6

2018-08-19 | 護国仏教
弘安四年の夏頃、蒙古人、大唐・高麗以下の国々共の兵を駈り具して十萬七千余艘の大船に数千万人乗せ連れて来襲す。その中に高麗の五百艘は壱岐・対馬より上り、見るものをば打ち殺す。人民堪えかねて,妻子を引き具し深山に逃げ入るところに、赤子の泣き声を聞きつけても押し寄せければ片時の命も惜しければにや、偏愛する嬰児を我と泣く泣く害しけり。
 「世の中に最惜(いとおしき)ものは我が子なり、それに勝るは我が身なりけり」
と詠じける。人のすさみぞ思いでらるる。是よりして高麗の船は宗像の沖に寄る。蒙古・大唐の船共は対馬には寄せず、壱岐の島に着く。それより筥崎の前なる能古・志賀二島に着きにけり。是を見て高麗の船共、宗像より押し出でて、蒙古の船と一所による。今度は一定勝つべし、居住すべき料とて世路の具足、耕作の為とて鋤鍬までも持たせたりけり。
蒙古寄せたりと、島より博多に告げしかば、夜中のことにはあり、周章騒ぎののしりよばわり、東西南北馳せ集まる兵おびただし。もとより海端に数百町の石築地を面は急に一丈より高くこの方へ展べにして馬に乗りながら上を馳せ、賊船を直下にして下矢に射様にこしらえたり。その上に火を焚き、城の口きびしく構えたり。関東より秋田の城の次郎以下の大勢くだりつどい、九国二島の兵共、神社仏寺の輩まで我も我もと馳せきたり、箭鋒を調えて相待つといえども、兵糧米つき、力尽き、鎧重くして魂も身に添わざる心地して、弓を引くべきさまもなかりけり。文永の合戦に手のほどは見つ、可なうべきともおもわざれどもされども、もし神明のお助けにてかつことあらば、勧奨蒙らんと思う心をさきとなし、抜け抜けに志賀の島へと向かいける。
まず一番には草野次郎二隻にて夜討によせて異賊の船一艘に乗り移り、二十一人が首を取、船に火をかけて引退く。その後は用心して船を鎖合わせ押しまわして守護し、寄するものあらば大船より石弓を下すに、日本の船は小さくて打ち破られずということなし。死するものは多く、生きるものは稀なり。「前後に蛮を征するに千万人ゆいて一人もかえすものなし」というべし。「このこと無念。人種あるべからず。心心に寄せるべからず、夜討ち止めて合戦の次第評定あるべし」とぞ触れられける。されどもなおとどまらず。
伊予の国の住人河野六郎通道は異警護のため本国を立ちしとき、「十年のうちに蒙古寄席来たらずば異国に渡って合戦すべし」と起請文を十枚書いて氏神の三嶋の社に押し灰に焼いて自ら呑みて、この八か年相待ところに、「今ぞ時を得たる、是身の幸いに非ずなり」と勇んで、兵船二艘を以ておし寄せたりし程に、蒙古が放つ矢に屈強の郎党五人射ぬかれて伏す。憑むところの伯父さえ手負て臥しぬ。わが身も石弓に左肩強く打たれ、弓引くべきに及ばず。片手に太刀を抜き持ちて、帆柱を橋にかけて蒙古が船に乗り移って、散々に切り回り多くの敵を討ち取る。その中に大将軍と覚えて、玉の冠着けたりける者をば生け捕って、筒の前に責めつけて帰りけり。大友が嫡子と子の蔵人は、三十余騎にて責め寄せ、頸一つ取って帰りてけり。かくて後、西国の兵はすでに度々の合戦に及びヌ、関東よりの武士たちの手並みの程みせたまへと勧められて、城次郎が手の者に新左近十郎・今井彦次郎・財部九朗・伯父甥押し寄せて、命を限りと振る舞い、討死して失せにけり。その後蒙古は遥かの奥鷹の島へと漕ぎ寄せりけり。
しかる間、「九国すでに打たれんとす。長門に着ヌ。只今参上すべし。と様々の荒れ説、京都に聞こえければ如何すべきと上下万人仰天限りなし。
さる程に、米穀の類は西国よりは上がらず。京都の商人は売買たやすからず。「こはいかにせむ。蒙古乱入せずともこの飢渇には死すべし。たとえ命は尽きぬとも静かにしておらはばや。かかる周章の折に逢い散乱にして散乱粗動にて失せなんことの悲しさよ。九品往生の望みを遂げずして、五道輪廻の苦に逢わんことことをいかんせん。我が身独りは次の事、おさなき者の忽ち無病にしてたえいらんことことこそ無慙なれ。この乱今生後生の障りなり。「頭を上げて天に祈らば、天の色蒼々たり」と歎かれし孔子の言葉も理なり。神仏仏陀のお助けに非ずより他は、人力武術は尽き果てぬ。せんかたなし」とぞ歎きける。



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