福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴の『努力論』その10

2013-10-10 | 法話
凡庸の資質と卓絶せる事功

何事に依らず、人の或る時間を埋めて行くには、心の中にせよ、或は掌ての上にせよ、何ものかを持つてゐなければ居られぬ。丸で空虚でゐることは、出來得るかも知れぬが、先づ普通の人々としては爲し得られない。さらば心の中、或は掌の上に、何物かを持つてゐる事が常住であるならば、其の持つてゐるものの善いものでありたいことは言ふまでもない。
所謂志を立つると云ふことは、或るものに向つて心の方向を確定する意味で、云ひ換ふれば、心の把持するところのものを定める譯なのだ。それであるから、心の執る處のものを最も善いものにしなければならぬのは、自然の道理である。隨つて志を立つるには固からんことを欲する前に、先づ高からんことを欲するのが必要で、扨志立つて後は其固からんことを必要とする。
然らば志を立つるに最高であればよいかと云ふに、固より然樣さうである。併し萬人が萬人同一の志であるといふ事は有り得ない理だ。各人の性格に基づいて、其の人が善しとする處に、心を向けて行くべきなのである。政治上の最高地位を得て、最大功徳を世に立てようとか、或は宗教上道徳上の最上階級に到達して、最大恩惠を世に與へようとか、更に又文教美術の最靈の境涯に到達して、其の徳澤を世に與へようとか、それ等は何れも最高の階級に屬するもので方面は其れ/″\變つても立派なことは同一であるが、方向を異にするのは各人の性格から根ざして來るのである。そこで或る性格の人は同じ最上最高のところに志を立つるにしても、或事には適當し、或事には適當せぬといふことがある。即ち性格が其の志に適應しなければ駄目である。
是等は最も卓絶した人に就て云ふので、普通の人は、又性格其者が最上最善には有り得ない。甲乙丙丁種々あるけれども、第一級性格の人もあれば、第二級性格の人もあり、又第三級の性格を持つてゐる人もある。元來人の性格はさう云ふやうに段階を區別することは出來ないものである。が、肉體にも或る人は五尺六寸のものもあり、或は五尺三寸のものもあり、又五尺のものも多くある。斯く肉體の身長みのたけも、種々階級があるが如くに、性格といふものも、自らにして非常に高い人もある、中位の人もあり、更に低い人もある。そこで第一級の性格のものは、第二級の性格のものの志望するやうな事は自ら志望せず、第二級の性格のものは、第三級の性格の者の志望するやうな事は自然に望まぬ。其れは社會實際の状態であつて、各人の性格に基づくのだから致し方がない。譬へば是こゝに美術家があると假定して見ると、古往今來盡未來の第一位の人たらんとするものもあり、古の人に比して、誰位になり得れば、滿足と思ふものもあり、それよりも低き古人を眼中に置いて、それ位が滿足であると思ふものもある。又更に低きになると唯一時代に稱賛を博して、生活状態の不滿さへなければ、其れで滿足とするものもある。斯く人々の身長の高さに種々あるが如くに、人々の志望の度合も、性格に相應して自ら高低が現はれて來る。
中には又非常に謙遜の美徳を其の性質に具へて居るが爲めに、自己の志望よりも自己の實質の方が卓越して居る位の人もある。さう云ふ人は先づ稀有のことであつて、事實に例證して云つて見れば、南宋の岳飛は、歴史上の關羽、張飛と肩を竝べれば滿足であると信じた。併し岳飛の爲した事は、關羽張飛と肩を竝べるどころではない。寧ろ關張よりも偉い位である。又三國の時の孔明は、管仲樂毅などの人々を自分の心の標的としてゐた。けれども孔明の人品事業は、決して管仲樂毅の下には居ない。斯く二人の如き謙遜の美はしい性質を有した人は、暫く除外例として、多くの人々は尺を得んとして寸を得、寸を得んとして其の半ばにだも達せずして終る。それ故志は性格に應じて、出來得るだけ高からんことを欲する。大なる志望を懷いても、三十四十五十と、追々年を取るに隨つて遂には陋巷に朽ち果てて終るのが常であるから、人は假初にも高い志望を懷かねばならぬ。
一生を委ぬる事業は、暫くさし措いても、日常些細のことでも矢張同一である。娯樂でも何でも心の中掌ての上に持つてゐるものは、願くは最高最善のものでありたい。或る人は盆栽を買つても安いものを買ひ、鳥を飼つてもイヤなものを飼ひ、園藝をしても拙劣まづいものを作り、其の他謠曲にしても、和歌にしても、又三味線にしても、種々の娯樂を取るに、いづれも最低最下のところで終る人がある。又或る性格の人は、種々の樂しみの中で、「盆栽は好むが他は好まぬ。盆栽でも草の類は澤山あるが、己れは草は措いて木を愛する。又木にも色々あるけれども、己は柘榴を愛玩する。其の代り柘榴に於ては、誰よりも深く玩賞し、且つ柘榴に關する智識と栽培經驗とを、誰よりも深く博く有して、而して誰よりも善いのを育てよう」とするものがある。些細のことであるが、柘榴に於ては天下一にならんことを欲して、最高級に志望を立てるものがある。さういふ人が若し他の娯樂に心を移したなら善い結果を得られぬが、是の如くにして變ぜざれば第一になることは出來ないまでも、其の人甚だしい鈍物ならざる以上、柘榴に於ては決して平凡の地位に終らない。柘榴の盆栽つくりに於ては他人をして比肩し得難きを感ぜしむるまでの高度の手腕を、其の人は持ち得られるに至る。それは最高に志望を置いた結果で、凡庸の人でも、最狹の範圍に最高の處を求むるならば、その人は蓋し比較的に成功し易い。
近頃或る人が蚯蚓の生殖作用を研究して、專門家に利益を與へたといふ事が新聞に見えて居た。是は誠に興味ある事例で、蚯蚓の如き詰らぬものにしても、其の小さい範圍に長年月の間心を費せば、其の人は別に卓越した動物學者でないにも拘はらず、卓越した學者にすら利益を與へ得ると云ふことに到達し、永い間の經驗の結果は世の學界に或るものを寄與貢獻したと云ふことになつたのである。實に面白いことでは無いか。
人々の身長みのたけの高さは大凡定つてゐるのであるから、無暗に最大範圍に於ける最高級に達することを欲せず、比較的狹い範圍内に於て志を立てて最高位を得んことを欲したならば、平凡の人でも知らず識らず世に對して深大なる貢獻をなし得るであらう。何をしても人はよい。一生瓜を作つても馬の蹄鐵を造つても、又一生杉箸を削つて暮しても差支ない。何に依らず其のことが最善に到達したなら、その人も幸福であるし、又世にも幾干かの貢獻を殘す。徒らに第二第三級の性格であることをも顧みずして、第一級の志望を懷かうよりも、各自の性格に適應するものの最高級を志望したならば、其の人は必らず其の人としての最高才能を發揮して、大なり小なり世の中に貢獻し得るであらう。
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