二宮金次郎は安政3年10月20日(1856年11月17日)日光仕法の途中70歳で下野国今市村の報徳役所にて没しています。
金次郎の言葉で最も印象に残るのは「わが道はまず心田の荒蕪を開くのを先務としなければならぬ」(二宮翁夜話)です。
「観音信仰と坐禅の心」(清水谷恭順)には金次郎の観音信仰が出てきます。
「神奈川県の飯泉(いいずみ)観音は、板東(ばんとう)33箇所霊場の一つであります。
あの寺へ二宮尊徳先生が若いころにお参りをしました。
その日に先にお坊さんが行ってお経をあげておりました。
二宮金次郎さんはうしろでそれを聞いておりますと、日本語であげておるものですからよくわかります。
そこでお経が済んでしまったから、その旅僧に向かって
「ただいまおあげになったお経は何というお経でございますか」
「これは観音経でございます」
「そうですか、私はときどき菩提所へ参りまして、お坊さんが観音経をあげるのをお聞きしますけれども、少しもわかりませんでしたが、ただいまのはよくわかったのですが、どういうわけですか」
「いや、ふだんは呉音で中国風に棒読みにしておるからおわかりにならないんでありますけれども、ただいまのは和訳をして読誦(どくじゅ)しましたからおわかりになったんんであります」
「あ、そうですか、まことにありがとうございました。
ここに僅かではありますが、200文あります。
これをお布施におあげしますから、もう一度ただいまのように日本語であげてください」
「それはおやすいことですからいたしますがお布施はいりません」
「いや、そうではなく、どうぞ些細でありますけれどもお受け願いたい、
ぜひもう一度おあげください」
「かしこまりました。
それならばちょうだいいたします」
というのでその200文をいただいて、
旅僧がもう一度
「その時に無尽意菩薩(むじんにぼさつ)、すなわち座よりたってひとえに右の肩をあらわにして・・・」というふうに和訳して観音経を唱えました。
そうすると二宮尊徳先生は若い時から偉かった。
それをずっとお聞きして何と申されたかというと
「誠にありがたいことです。
観音経は要するに私には二宮金次郎観音になれということをお説きになったんですね」
と坊さんに尋ねました。
坊さんはびっくりしました。
自分などが長い間かかってそういうことを悟ったにもかかわらず、
二宮金次郎青年は二度聞いただけで直ちに観音経の真髄を体得されたのであります。
あありっぱな人であると感じまして
「あなたもお若いのになかなか偉い、
あなたのおっしゃるとおりであります。
観音様は、われわれに観音になれ、お互いが観音さまになって慈悲をもって一切の人々に対し、また動物にも対し、草木にも対せよということ、
つまりわれわれに観音さまになれということが、説かれてあるのであります」
という答えをしたそうです。
ですから、皆さんが観音経をおあげになり観音さまを信仰する以上は、皆さんがそのまま一分の観音さまになってください。
それが観音さまの思し召しであります。」