「仏法のなかでは智慧を第一となすのに、如来はどういうわけで、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・慈・悲・喜・捨をすべてすすめるのか?」
「衆生の心性にあわせて色々の徳目を説くのである」
以下、華厳経・明難品第八段落の「助道甚深」の項の和訳と原文。
文殊菩薩は、智首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏法のなかでは智慧を第一となすのに、如来はどういうわけで、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・慈・悲・喜・捨をすべて讃嘆したもうのであろうか。こういう法では、無上菩提を得ることはできないであろうに。」
そのとき、智首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。
過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけで覚った方はいない。
如来は衆生の心性のそれぞれ異なるを知り度すべき者に応じて浄妙の法を説き賜う。
貪欲のものには布施を讃め、禁を破るものには持戒を讃め、怒りやすいものには、忍辱を讃め、怠惰なものには精進を讃め、こころの乱れやすいものには禅定を讃め、愚痴のものには智慧を讃め、 仁愛に欠けるものには、慈を讃め、残忍なものには悲を讃め、こころに憂いをいだくものには喜を讃め、 憎愛するものには捨を讃めておられる。このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。
例えば先ず地形を固めて後に宮殿を建てるようなもので、布施は菩薩の諸々の修行の本である。
例えば堅牢な城が難敵を防御するようなもので忍辱と精進は諸々の菩薩を防御する。
例えば大力の王が威徳を以て天下を平定するようなもので三昧と智慧とは諸々の菩薩を安穏にする
例えば転輪王が具にあらゆる楽しみを受けるようなもので慈悲喜捨は諸々の菩薩を安楽にする。」
」
爾時、文殊師利は智首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛法中に於いては智慧を首となすに如來は何が故に、或は衆生の為に檀波羅蜜・尸波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禪波羅蜜・般若波羅蜜・慈悲喜捨を讃歎したまふや。此の一一の法にては皆無上菩提を得ること能はざるべし。」
爾時、智首菩薩は偈を以て答て曰く
「 知り難きを而も能く知りて 衆生心に隨順せり。
佛子よ所問の義を 諦聽せよ。我今説かん。
過去未來世に、 現在の諸導師は
未だ曾って一法のみを以て 無上道を成ずることを得たまはず。
如來は、衆生の 本性に修習する所を知りて
善く應に度すべき者に順じて 爲に淨妙の法を説きたまふ。
慳者には布施を讃め、 禁を毀るものには持戒を讃め、瞋恚のものには忍辱を讃め、懈怠のものには精進を讃め、亂意のものには禅定を讃め、 愚癡のものには智慧を讃め、不仁のものには慈愍を讃め、怒害のものには大悲を讃め、憂慼するものには爲に喜を讃め、憎愛のものには爲に捨を讃め、
如是にして修習せん者は 漸く一切法を解せん。
譬ば宮室を造るに基を起して堅固ならしむるが如く、施戒も亦た如是なり。 菩薩衆行の本なり。
たとへば牢堅城の諸敵難を防御するがごとく、
忍進も亦た如是に諸菩薩を防護す。
譬ば大力の王の 威徳を以て天下を定るが如く
禪智も亦た如是なり。諸の菩薩を安隱にす。
譬ば轉輪王の 具に一切の樂を受るが如く
四等(四無量心)も亦た如是なり。諸の菩薩を安樂にす。」
「衆生の心性にあわせて色々の徳目を説くのである」
以下、華厳経・明難品第八段落の「助道甚深」の項の和訳と原文。
文殊菩薩は、智首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏法のなかでは智慧を第一となすのに、如来はどういうわけで、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・慈・悲・喜・捨をすべて讃嘆したもうのであろうか。こういう法では、無上菩提を得ることはできないであろうに。」
そのとき、智首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。
過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけで覚った方はいない。
如来は衆生の心性のそれぞれ異なるを知り度すべき者に応じて浄妙の法を説き賜う。
貪欲のものには布施を讃め、禁を破るものには持戒を讃め、怒りやすいものには、忍辱を讃め、怠惰なものには精進を讃め、こころの乱れやすいものには禅定を讃め、愚痴のものには智慧を讃め、 仁愛に欠けるものには、慈を讃め、残忍なものには悲を讃め、こころに憂いをいだくものには喜を讃め、 憎愛するものには捨を讃めておられる。このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。
例えば先ず地形を固めて後に宮殿を建てるようなもので、布施は菩薩の諸々の修行の本である。
例えば堅牢な城が難敵を防御するようなもので忍辱と精進は諸々の菩薩を防御する。
例えば大力の王が威徳を以て天下を平定するようなもので三昧と智慧とは諸々の菩薩を安穏にする
例えば転輪王が具にあらゆる楽しみを受けるようなもので慈悲喜捨は諸々の菩薩を安楽にする。」
」
爾時、文殊師利は智首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛法中に於いては智慧を首となすに如來は何が故に、或は衆生の為に檀波羅蜜・尸波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禪波羅蜜・般若波羅蜜・慈悲喜捨を讃歎したまふや。此の一一の法にては皆無上菩提を得ること能はざるべし。」
爾時、智首菩薩は偈を以て答て曰く
「 知り難きを而も能く知りて 衆生心に隨順せり。
佛子よ所問の義を 諦聽せよ。我今説かん。
過去未來世に、 現在の諸導師は
未だ曾って一法のみを以て 無上道を成ずることを得たまはず。
如來は、衆生の 本性に修習する所を知りて
善く應に度すべき者に順じて 爲に淨妙の法を説きたまふ。
慳者には布施を讃め、 禁を毀るものには持戒を讃め、瞋恚のものには忍辱を讃め、懈怠のものには精進を讃め、亂意のものには禅定を讃め、 愚癡のものには智慧を讃め、不仁のものには慈愍を讃め、怒害のものには大悲を讃め、憂慼するものには爲に喜を讃め、憎愛のものには爲に捨を讃め、
如是にして修習せん者は 漸く一切法を解せん。
譬ば宮室を造るに基を起して堅固ならしむるが如く、施戒も亦た如是なり。 菩薩衆行の本なり。
たとへば牢堅城の諸敵難を防御するがごとく、
忍進も亦た如是に諸菩薩を防護す。
譬ば大力の王の 威徳を以て天下を定るが如く
禪智も亦た如是なり。諸の菩薩を安隱にす。
譬ば轉輪王の 具に一切の樂を受るが如く
四等(四無量心)も亦た如是なり。諸の菩薩を安樂にす。」