東京地方は、連日のように、猛烈な暑さが続く8月2日(日)、福聚講(高原耕昇講元)は、第4回目の、江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。テレビが盛んに呼びかける「熱中症」予防の猛暑日のさなか、午前10時、東京メトロ(地下鉄)南北線・本駒込駅に集合。この日の参加者は、5人(1人婦人)。
白い笈ずるに着替え、輪袈裟をつけ、「熱中症」防止に万端整えて、いざ、出発。毎回のことですが、巡拝行の始まりの第一歩の足の踏み出しは、清清しいものが感じられます。歩き始めて10分の所に、この日第一番目の寺があります。
第8番札所 東梅山花陽院 清林寺[東京都文京区向丘2-35-3]。本尊・聖観世音菩薩 浄土宗。
同寺は、文明15年(1483年)鎌倉・光明寺8世貫主の祐崇上人によつて開山されました。当時は、武蔵国豊島郡神田三河町地域の境内1080坪の拝領を受けて創建されたと言います。清林寺第2世天歴上人は、徳川家康の入府に際し、祝言を言上して、その祝表として、松竹梅の植木一鉢ずつを拝領しています。それらの鉢植えは、「天下栄の松」「万年の竹」「相生の東梅」と称されたことから同寺は、「東梅山花陽院清林寺」と命名され、家紋も「梅鉢」が使われています。
ところで、祐崇上人は、浄土宗では、初めて、鎌倉の光明寺で、「お十夜会」と言う行事を行い、お念仏を広めることに尽力しました。「お十夜」の仏事は、浄土宗の重要な行事になっています。同寺でも、開山上人の意思を受け継いで、大玉の大数珠を、大勢で輪になって、十昼夜、念仏を唱える、一大行事を、毎年10月に行っています。この、お十夜の念仏行は、大玉の数珠を、皆で手繰りながら、念仏を唱え、阿弥陀様・観音様に感謝すると言う、素朴で、純朴な信仰心を、順繰りに念仏を唱える人たちに伝え合う、素晴らしい行為の行事です。
他聞にもれず、清林寺は、創建以来530年の間に、大火事にあったり、寺の機能を失ったりして、危機の時代を経てきたのですが、仏の加護と、困難にもひるまない篤い信仰を持った江戸庶民の努力で、今日を迎えているといいます。
また、特筆すべきは、現在、清林寺は、わが国でも奈良県以外では、唯一の飛鳥時代様式による木造建築の三重の塔を建設しています。本格的な飛鳥様式の三重塔で、「法輪寺三重塔」を参考にしています。清林寺創建500年祭を機として、「仰ぐ人皆に天地の理を示す木造三重塔」の建立を祈願、昭和52年(1
977年)着工、平成23年(2011年)1月の時点では、二層の途中まで出来ています。現時点では、工事現場では、太い大木が置かれ、鉄パイプの周囲は、ブルーシートーに覆われ、宮大工が、完成を急ぐ工事が続けられています。
本堂の横に、いつでも、誰でも、気軽にお参りが出来る、観音像が祀られているのをガラス越しに見れる観音堂が、あります。御朱印をいただく納経所の玄関前に、木造木彫りの[高さ15センチ]の仏像と小さな脇仏が二体置かれていました。但し書きの衝立に、「仏像は津波で流された、陸前高田の松で彫刻しました。海中で人や、動物、家など洗濯機のように掻き混ぜられた松です。どうぞ、触れてください。ご供養になります。」とありました。粛然とさせられます。
今更ながらかもしれませんが、同寺で改めて、観音巡礼の仕方を教わりました。
曰く、観音様の巡礼は、1回は、父親のため、1回は、母親のため、さらに1回は、自分のために、お参りするといわれています。そして、「ご朱印」と言われてきたのは、本来は、お参りする観音様のご本尊を自分で調べてご朱印帳に、先ず、自分自身で「聖観音菩薩」とか「十一面観音菩薩」などと書いて、札所のお寺に差し出します。そこで、お寺では、そのご朱印帳に「朱印」を押し,日付を記入してお返ししていただくのだそうです。巡礼には、様々なお参りの仕方があるかも知れませんが、古来から言い伝えられた観音巡礼の本来のお参りの仕方は、このように言われてます。。。。と言うものでした。
このお寺の境内には、一角、数多なお墓が林立してあり、寺と墓の行列している隣り民家との境界線には、民家のダイニングとキッチンの窓が開かれ、隣り合わせになっています。このお宅にとっては、墓碑などは、普通の原風景になっていて,死者を葬っている所と言うより、LEGOの積み木細工の玩具が並んでいるような感覚でいるような、いかにも、都会でしか見られない光景であります。
御詠歌 安楽の 往生願い 観音に 十声となうれば かないぬる。
(続)
白い笈ずるに着替え、輪袈裟をつけ、「熱中症」防止に万端整えて、いざ、出発。毎回のことですが、巡拝行の始まりの第一歩の足の踏み出しは、清清しいものが感じられます。歩き始めて10分の所に、この日第一番目の寺があります。
第8番札所 東梅山花陽院 清林寺[東京都文京区向丘2-35-3]。本尊・聖観世音菩薩 浄土宗。
同寺は、文明15年(1483年)鎌倉・光明寺8世貫主の祐崇上人によつて開山されました。当時は、武蔵国豊島郡神田三河町地域の境内1080坪の拝領を受けて創建されたと言います。清林寺第2世天歴上人は、徳川家康の入府に際し、祝言を言上して、その祝表として、松竹梅の植木一鉢ずつを拝領しています。それらの鉢植えは、「天下栄の松」「万年の竹」「相生の東梅」と称されたことから同寺は、「東梅山花陽院清林寺」と命名され、家紋も「梅鉢」が使われています。
ところで、祐崇上人は、浄土宗では、初めて、鎌倉の光明寺で、「お十夜会」と言う行事を行い、お念仏を広めることに尽力しました。「お十夜」の仏事は、浄土宗の重要な行事になっています。同寺でも、開山上人の意思を受け継いで、大玉の大数珠を、大勢で輪になって、十昼夜、念仏を唱える、一大行事を、毎年10月に行っています。この、お十夜の念仏行は、大玉の数珠を、皆で手繰りながら、念仏を唱え、阿弥陀様・観音様に感謝すると言う、素朴で、純朴な信仰心を、順繰りに念仏を唱える人たちに伝え合う、素晴らしい行為の行事です。
他聞にもれず、清林寺は、創建以来530年の間に、大火事にあったり、寺の機能を失ったりして、危機の時代を経てきたのですが、仏の加護と、困難にもひるまない篤い信仰を持った江戸庶民の努力で、今日を迎えているといいます。
また、特筆すべきは、現在、清林寺は、わが国でも奈良県以外では、唯一の飛鳥時代様式による木造建築の三重の塔を建設しています。本格的な飛鳥様式の三重塔で、「法輪寺三重塔」を参考にしています。清林寺創建500年祭を機として、「仰ぐ人皆に天地の理を示す木造三重塔」の建立を祈願、昭和52年(1
977年)着工、平成23年(2011年)1月の時点では、二層の途中まで出来ています。現時点では、工事現場では、太い大木が置かれ、鉄パイプの周囲は、ブルーシートーに覆われ、宮大工が、完成を急ぐ工事が続けられています。
本堂の横に、いつでも、誰でも、気軽にお参りが出来る、観音像が祀られているのをガラス越しに見れる観音堂が、あります。御朱印をいただく納経所の玄関前に、木造木彫りの[高さ15センチ]の仏像と小さな脇仏が二体置かれていました。但し書きの衝立に、「仏像は津波で流された、陸前高田の松で彫刻しました。海中で人や、動物、家など洗濯機のように掻き混ぜられた松です。どうぞ、触れてください。ご供養になります。」とありました。粛然とさせられます。
今更ながらかもしれませんが、同寺で改めて、観音巡礼の仕方を教わりました。
曰く、観音様の巡礼は、1回は、父親のため、1回は、母親のため、さらに1回は、自分のために、お参りするといわれています。そして、「ご朱印」と言われてきたのは、本来は、お参りする観音様のご本尊を自分で調べてご朱印帳に、先ず、自分自身で「聖観音菩薩」とか「十一面観音菩薩」などと書いて、札所のお寺に差し出します。そこで、お寺では、そのご朱印帳に「朱印」を押し,日付を記入してお返ししていただくのだそうです。巡礼には、様々なお参りの仕方があるかも知れませんが、古来から言い伝えられた観音巡礼の本来のお参りの仕方は、このように言われてます。。。。と言うものでした。
このお寺の境内には、一角、数多なお墓が林立してあり、寺と墓の行列している隣り民家との境界線には、民家のダイニングとキッチンの窓が開かれ、隣り合わせになっています。このお宅にとっては、墓碑などは、普通の原風景になっていて,死者を葬っている所と言うより、LEGOの積み木細工の玩具が並んでいるような感覚でいるような、いかにも、都会でしか見られない光景であります。
御詠歌 安楽の 往生願い 観音に 十声となうれば かないぬる。
(続)