第十二講 開かれたる秘密
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経
(といいて般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょうを説き終わる)
秘密の世界
さてこれからお話し申し上げる所は『心経』の最後の一節でありまして、昔から秘蔵真言分と称せられて、一般に翻訳されずに、そのままに読誦どくじゅせられつつ、非常に尊重され、重要視されているのであります。どういう理由わけで翻訳されなかったかというに、いったい翻訳というものは、詩人のいうごとく、原語に対する一種の叛逆です。よくいったところで、ただ錦の裏を見るに過ぎないのです。経緯の絲はあっても、色彩、意匠の精巧たくみさは見られないのです。たとえば日本独特の詩である俳句にしてもそうです。これを外国語に翻訳するとなると、なかなか俳句のもつ持ち味を、そのまま外国語に訳すことはできないのです。たとえばかの「古池や」の句にしても、どう訳してよいか、ちょっと困るわけです。「一匹の蛙かえるが、古池に飛び込んだ」と訳しただけでは、俳句のもつ枯淡こたんなさび、風雅のこころ、もののあわれ、といったような、東洋的な「深さ」は、どうしても西洋人にはシッカリ理解されないのです。「花のかげあかの他人はなかりけり」(一茶)の句など、ほんとうに訳す言葉がないように思われます。ひところ、文壇の一部では俳句に対する、翻訳是非の議論が戦わされましたが、全く無理もないことで、外国語に訳すことは必要だとしても、どう訳すべきかが問題なのです。
翻訳はむずかしい
ところで簡単な十七字の詩でさえ、翻訳が不可能だとすると、経典の翻訳などのむずかしいことは、今さら申すまでもありません。したがって梵語サンスクリットの聖典を漢訳する場合などは、ずいぶん骨が折れたに相違ありません。昔から、中国の仏教は、翻訳仏教だとまでいわれるくらいですが、しかし、中国でスッカリ梵語聖典を翻訳しておいてくれたればこそ、私どもは今日、比較的容易に、聖典を読誦し、理解することができるのです。だがまだまだ漢訳でも不十分でありますから、私どもはどうしても、ほんとうの日本訳の聖典を作らねばならぬと存じまして、私などもいろいろそれについて苦心しているわけですが、それにつけても私どもは、経典翻訳者の甚深なる苦心と労力に対して、満腔の感謝の意を表さねばならぬと思います。いずれにしても翻訳ということはずいぶん困難な事業でありますが、それについて想い起こすことは、かの「五種不翻」ということであります。これは有名な、かの玄奘げんじょう三蔵が唱えた説でありますが、要するにこれは、どうしても華語すなわち中国の言葉に訳されない梵語が、五種あるというのです。したがってそれは原語の音をそのまま写すだけに止とどめておいたわけです。たとえば、インドにあって中国にないものとか、一つの語に多くの意味が含まれているものとか、秘密のものとか、昔からの習慣に随したがうものとか、訳せば原語の持つ価値を失う、といったようなわけで、これらの五種のものは、訳さずに漢字で、原語の音標を、そのまま写したわけです。さてこれから申し上げるところの、「般若の呪文じゅもん」も、「秘密」という理由で、あえて玄奘三蔵は翻訳せずに、そのまま梵語の音だけを写したわけです。だから、どれだけ漢字の意味を調べても、それだけではとうてい、「呪」の意味は、ほんとうに理解されないわけです。
心経をよめとの詔勅
ところで、この般若の真言について想い起こすことは、今から千百八十九年の昔、すなわち天平宝字二年の八月に下し賜わった淳仁天皇の詔勅であります。その勅語の中にこう仰せられております。
「摩詞般若波羅蜜多は、諸仏の母なり。四句の偈げ等を受持し、読誦どくじゅすれば、福寿を得ること思量すべからず。之を以て、天子念ずれば、兵革、災難、国裡こくりに入らず。庶人念ずれば、疾疫しつえき、癘気れいき、家中に入らず。惑わくを断ち、祥しょうを獲うること、之に過ぎたるはなし。宜よろしく、天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑しずかに、般若波羅蜜多を念誦すべし」
というのであります。これは『続日本紀』の第二十一巻に出ておる詔勅ですが、要するに、勅語の御趣旨は、上は、天皇から、下は国民一般に至るまで、大にしては、天下国家のため、小にしては、一身一家のために、『心経』一巻を読誦する暇いとまなくば、せめてこの般若波羅蜜多の「呪じゅ文」を唱えよ、という思し召しであります。さてただ今も申し上げた通り、いったい「呪じゅ」とか「真言しんごん」とか「陀羅尼だらに」などというものは、いわゆる「一字に千理を含む」で、たった一字の中にさえ、実に無量無辺の深い意味が含まれているのですから、古来より梵語を強しいて翻訳せずして、陀羅尼は、陀羅尼のままに、真言は、真言のままに、呪は、呪のままによみ伝えてきたのです。すなわち陀羅尼にしても、呪にしても、真言にしても、それは神聖にして犯すべからざる仏の言葉であるのと、それにはきわめて深遠な意味が含まれているという所から、梵語の音を、そのままにこれを漢字に写すだけで、わざと翻訳しなかったわけです。したがって昔から、一般にこの般若の四句の呪文は、何がなしに、ありがたい功徳があるというので、そのまま翻訳せずに、信じ且つ誦となえていたのです。
しかし人間というものは妙なもので、いえないものを、いってみよ、というのが人間の癖です。とかく、見るな、というものほど、見たいものです。聞くな、といわれるほど、よけいに聞きたいものです。いや、するなといえば、よけいにやってみたいのが人情です。で、般若の真言も、そのわけは知らなくてもよい、ただそのまま唱えていれば功徳があるのだ、利益りやくがあるのだ、といった所でなかなか人間は承知しないのです。「いったいそれはどういう意味なのだ」「わけがわからないものを、むやみにありがたいといって、誦えることはできないではないか」というのです。むろん、それはまことに、一応無理もない話です。いったい人間は「考える動物」です。ギリシア語のアントローポスにしたところで、梵語のマヌシャにしたところで、それはいずれも人間という事ですが、その意味は「考えるもの」ということです。思い、考えるものが人間です。この意味において、あのパスカルが「人間は考える蘆(あし)」だといったことばは、非常に面白い、いや、趣があると存じます。全く人間は、あの水際に生えている蘆のように弱いものです。肉体はわずか一滴の水、一発の弾丸たまにでも、容易に斃たおれる、きわめてか弱いものです。しかしたとい、全世界が武装してかかっても、人間の中から「考える」という心を奪う事はできないのです。「人間は考える蘆」とは味わうべき、意味ふかい語ことばであります。よく考えるか、悪く考えるか、シッカリよく考えるか、よい加減に考えるか、はともかく、人間である以上、それはなにか、それはどういうわけで、それはどうして、などと考えることはむしろ当然です。
ではいったいこの般若の四句の呪文(じゅもん)は、どんな意味をもった言葉かと申しまするに、最前も申し上げたごとく、これは梵語の音をそのまま写したものです。原語でいうと「ガテイ、ガテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スバーハー」というのです。ところでいま、かりにそれをしいて翻訳してみると、最初の「掲諦ぎゃてい」とはつまり「往ゆくことに於いて」という意味です。だから、「掲諦、掲諦」と重ねていえば、それは「往くことにおいて、往くことにおいて」という意味です。ではいったい、「どこへ行くか」というと、そのつぎの「波羅掲諦はらぎゃてい」という語がそれを表わしています。すなわち、「向こうへ往く」ことなのです。ところで、「向こうへ往く」ということは、どんな意味かというと、それは、彼岸の世界へ行くことなのです。迷いの此岸から、悟りの彼岸へ行くことです。つまり、凡夫の世界から、仏の世界へ行くことなのです。弘法大師はこれを「行々ぎょうぎょうとして円寂えんじゃくに入る」と訳しています(般若心経秘鍵より、「ゆきゆきて涅槃に至る」の意)。次に「波羅僧掲諦はらそうぎゃてい」というのは、「波羅はら」は向こうという意味、「僧掲諦」とは到達する、結びつく、いっしょになる、というような意味です。したがって「波羅僧掲諦」ということは、凡夫が仏の世界へ到達して、仏といっしょになるということです。次に「菩提薩婆訶ぼじそわか」という事ですが、菩提は菩提ぼだいすなわち悟さとりのことです。「薩婆訶」は、速疾そくしつとか、成就じょうじゅとか、満足というような意味で、どの真言の終わりにも、たいていついている語ことばです。
以上ひと通り、この真言の意味を解釈しましたが、要するに『心経』の最後にある、この「掲諦掲諦」の四句の真言は、こういう風に解釈すればよいかと思います。
「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普あまねく一切の人々をみな行かしめ終わった。かくてわが覚さとりの道は成就された」
すなわち一言にしてこれをいえば、「自覚、覚他、覚行円満」ということです。すなわち「自ら覚さとり、他を覚さとらしめ、覚さとりの行ぎょうが完成した」ということで、それはつまり仏道の完成であります。しかもその仏道の完成こそ、まさしく人間道の完成であります。したがってこの四句の呪文は、単に『心経』一部の骨目こつもく、真髄しんずいであるのみならず、実に、八万四千の法門、五千七百余巻の、一切の経典の真髄であり、本質であるわけです。換言すれば、大小、顕密、聖道浄土しょうどうじょうど、仏教の一切の宗旨の教義、信条は、皆ことごとくこの四句の真言の中に含まれているのです。で、つまり、この真言の意味をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、機に応じ、時に臨みて、これを説き示したのが、今日の日本の仏教、すなわち十三宗五十八派の建前であるわけです。というのは、いうまでもなく大乗仏教の精神は、われらと衆生と皆共に仏道を成じょうぜんということです。同じく菩提心を発おこして浄土へ往生することです。したがって、それは決して自己独りの往生ではないのです。あくまで皆共にです。同じく菩提心を発おこすことです。私どもは、この真言の意味を理解することによって、はじめていっそう明瞭に『心経』が、どんな貴い経典であるか、いや、大乗仏教の眼目はどこにあるかを、ハッキリ知ることができるのです。あの弘法大師が、
「真言は不思議なり。観誦かんじゅすれば無明むみょうを除く。一字に千理を含み、即身に法如ほうにょを証す」(般若心経秘鍵)
といわれたのはそれです。般若の真言こそ、まことに不思議です。これを誦となえただけでも無明の煩悩まよいをとり除いて、悟さとりを開くことができるのです。「即身そくしんに法如ほうにょを証す」とは、そのままに、すみやかに、成仏するという意味です。ただし、漢訳のお経は、これでおしまいになっておりますが、梵語の原典にはこの真言の次に、「イテイ、プラジュニャー、パーラミター、フリダヤム、サマープタム」という語ことばがあります。ところで、これを翻訳すると、こういう意味になるのです。「といいて、般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょうを説き終われり」というのです。しかしこの語はあってもなくても、同じことですから、玄奘げんじょう三蔵は、わざとこれを省略せられて、ただ最後に「般若心経」という語だけを、つけ加えられたのであります。
以上はなはだ拙つたない講義ではありましたが、十二講にわたってだいたい一通り、「心経とはどんなお経か」「心経にはどんなことが書いてあるか」「心経はなにゆえ、天下一の経典であるか」というようなことを、ざっとお話ししたわけですが、最も深遠なこのお経を、私ごとき浅学菲才ひさいの者が講義するのですから、とうてい皆さまの御満足を得ることができなかったことは、私自身も十分に承知しておりますし、また貴いこの『心経』の価値を、あるいはかえって冒涜ぼうとくしたのではないかとも怖おそれている次第であります。古来、仏教では「法を猥(みだ)りに冒(おか)したものは、その罪、死に値す」とまで誡いましめておりますが、この意味において、私もおそらく、死に値する一人でありましょう。地獄へ落ちてゆく衆生の一人でありましょう。しかし、私はそれで満足です。
仏教への門
いったい古人もしばしばいっているように、仏教への門は、所詮しょせん「信」であります。信ずる心です。しかも信とは、愛し敬うこころです。仏教を愛し、敬い、これを信ずる心がなくては、とうてい、仏教をほんとうに知ることはできないのです。合掌する心持、南無なむする心、それはいずれも信心のしるしです。信仰の象徴です。南無とは、決して南みなみ無なしではありません。
坊さんがお経を読む時に、唱える枕詞まくらことばでもありません。南無とは、実に帰依することです。帰命の精神です。相手を絶対に愛し敬い、信頼することです。しかもその南無の心を形によって示したものが、「合掌」です。拝むことです。「右仏 左は我と拝む手の、うちぞゆかしき南無の一声」と古人は教えています。両手を合わす右の手は仏陀ほとけの世界です。左の手こそ、衆生の自分です。かくて、この両手を合わし、南無の精神に生きる所に、はじめて、私どもは、ほんとうに仏我れにあり、我れに仏あり、との安心あんじんを得ることができるのです。いくらラジオの放送はあっても、これを聴く機械を持たない人には、ないと等しいのです。しかもたとい聴く機械があっても、スイッチを入れておかなくては、機械がないと同じです。常恆じょうご不断に、絶えず放送しておられる、仏の説法も、「合掌」と言う機械があり、「南無」という電流を通じてこそ、はじめて、はっきりと聞くことができるのです。にもかかわらず、とかく私たちは、どういうものか、ひたすら科学的立場から、ものを見ることになれて、ただ、聞こえないから、ない、見えないから、ないとすぐに判断してしまうのです。しかし、ものが見えないから、ないのではありません。見ないから、ないように思うのです。聞こえないから、ないのではなくて、聞かないから、ないと思うのです。見ようとしないもの、聞こうとしないものには、何事もないと同様です。
いったい機縁というか、契機というか、機会チャンスというか、とにかく「縁」というものは不思議なものです。「縁なき衆生は度し難い」などと、昔からいっていますが、縁のないものには、如何いかんともし難いのです。西洋の諺ことわざにも、「機会チャンスは前の方には毛があるが、後には毛がない。機会チャンスが来た時、捕えればよいが、一度とり逃がしたら最後、脚あしの早いあのジュピターの神でさえ、捕えることができない」といっております。全くその通りです。私どもには、機会の来るのを待つ、時節の到来を待つ、待機の姿勢が必要です。運は寝て待て、ではなくて、少なくとも練ってまてです。かりに説くべき人があっても、聞くべき人がなければ、説くことはできません。また聞くべき人はあっても、説くべき人がなければ、聞くことができないのです。説く人と、聞く人との因縁が相応し、和合する所に、はじめて聞く事もでき、説く事もできるのです。
何事も、世の中の事は、みな「縁」です。しかしその「縁」は、たちまちにして来きたり、またたちまちにして去るのです。因縁はすべて「一期一会」です。聴くべき時に聞き、味わう時に味わわねば、いつになっても聞く事もできなければ、また知る事もできないのです。世に「急いで結婚して、ゆっくり後悔する」という諺もありますが、それはあながち結婚にかぎったことではないのです。いたずらに急ぐ必要もありませんが、しかし、「仏法には明日というべきことあるべからず」と古人も誡めています。いつもいつも、「明日」と約束ばかりしていると、永遠に仏教を味わい、人生のほんとうの意味と価値をあきらめずに死んでゆかねばなりません。すべからく私どもは因縁に随順してすみやかに般若の智慧ちえを磨みがく事によって、まさしくさとりの世界をハッキリ味得せねばなりません。(注、瀬戸内寂聴師であったか「刹那の仏縁に感応する」ことが大切、という趣旨のことを書いているのを覚えています。私自身17年にはじめて徒歩四国遍路成満、20年の閏年には四国逆打で言葉にできない有難いご縁を頂いたのも、21年に求聞持を太龍寺で成満できたのも、いずれも師と仰ぐ方が勧めてくださったからその気になったのです。不思議なめぐりあわせでで口には語り得ぬ有難い体験をできたことを仏様に感謝もうしあげています。)
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経
(といいて般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょうを説き終わる)
秘密の世界
さてこれからお話し申し上げる所は『心経』の最後の一節でありまして、昔から秘蔵真言分と称せられて、一般に翻訳されずに、そのままに読誦どくじゅせられつつ、非常に尊重され、重要視されているのであります。どういう理由わけで翻訳されなかったかというに、いったい翻訳というものは、詩人のいうごとく、原語に対する一種の叛逆です。よくいったところで、ただ錦の裏を見るに過ぎないのです。経緯の絲はあっても、色彩、意匠の精巧たくみさは見られないのです。たとえば日本独特の詩である俳句にしてもそうです。これを外国語に翻訳するとなると、なかなか俳句のもつ持ち味を、そのまま外国語に訳すことはできないのです。たとえばかの「古池や」の句にしても、どう訳してよいか、ちょっと困るわけです。「一匹の蛙かえるが、古池に飛び込んだ」と訳しただけでは、俳句のもつ枯淡こたんなさび、風雅のこころ、もののあわれ、といったような、東洋的な「深さ」は、どうしても西洋人にはシッカリ理解されないのです。「花のかげあかの他人はなかりけり」(一茶)の句など、ほんとうに訳す言葉がないように思われます。ひところ、文壇の一部では俳句に対する、翻訳是非の議論が戦わされましたが、全く無理もないことで、外国語に訳すことは必要だとしても、どう訳すべきかが問題なのです。
翻訳はむずかしい
ところで簡単な十七字の詩でさえ、翻訳が不可能だとすると、経典の翻訳などのむずかしいことは、今さら申すまでもありません。したがって梵語サンスクリットの聖典を漢訳する場合などは、ずいぶん骨が折れたに相違ありません。昔から、中国の仏教は、翻訳仏教だとまでいわれるくらいですが、しかし、中国でスッカリ梵語聖典を翻訳しておいてくれたればこそ、私どもは今日、比較的容易に、聖典を読誦し、理解することができるのです。だがまだまだ漢訳でも不十分でありますから、私どもはどうしても、ほんとうの日本訳の聖典を作らねばならぬと存じまして、私などもいろいろそれについて苦心しているわけですが、それにつけても私どもは、経典翻訳者の甚深なる苦心と労力に対して、満腔の感謝の意を表さねばならぬと思います。いずれにしても翻訳ということはずいぶん困難な事業でありますが、それについて想い起こすことは、かの「五種不翻」ということであります。これは有名な、かの玄奘げんじょう三蔵が唱えた説でありますが、要するにこれは、どうしても華語すなわち中国の言葉に訳されない梵語が、五種あるというのです。したがってそれは原語の音をそのまま写すだけに止とどめておいたわけです。たとえば、インドにあって中国にないものとか、一つの語に多くの意味が含まれているものとか、秘密のものとか、昔からの習慣に随したがうものとか、訳せば原語の持つ価値を失う、といったようなわけで、これらの五種のものは、訳さずに漢字で、原語の音標を、そのまま写したわけです。さてこれから申し上げるところの、「般若の呪文じゅもん」も、「秘密」という理由で、あえて玄奘三蔵は翻訳せずに、そのまま梵語の音だけを写したわけです。だから、どれだけ漢字の意味を調べても、それだけではとうてい、「呪」の意味は、ほんとうに理解されないわけです。
心経をよめとの詔勅
ところで、この般若の真言について想い起こすことは、今から千百八十九年の昔、すなわち天平宝字二年の八月に下し賜わった淳仁天皇の詔勅であります。その勅語の中にこう仰せられております。
「摩詞般若波羅蜜多は、諸仏の母なり。四句の偈げ等を受持し、読誦どくじゅすれば、福寿を得ること思量すべからず。之を以て、天子念ずれば、兵革、災難、国裡こくりに入らず。庶人念ずれば、疾疫しつえき、癘気れいき、家中に入らず。惑わくを断ち、祥しょうを獲うること、之に過ぎたるはなし。宜よろしく、天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑しずかに、般若波羅蜜多を念誦すべし」
というのであります。これは『続日本紀』の第二十一巻に出ておる詔勅ですが、要するに、勅語の御趣旨は、上は、天皇から、下は国民一般に至るまで、大にしては、天下国家のため、小にしては、一身一家のために、『心経』一巻を読誦する暇いとまなくば、せめてこの般若波羅蜜多の「呪じゅ文」を唱えよ、という思し召しであります。さてただ今も申し上げた通り、いったい「呪じゅ」とか「真言しんごん」とか「陀羅尼だらに」などというものは、いわゆる「一字に千理を含む」で、たった一字の中にさえ、実に無量無辺の深い意味が含まれているのですから、古来より梵語を強しいて翻訳せずして、陀羅尼は、陀羅尼のままに、真言は、真言のままに、呪は、呪のままによみ伝えてきたのです。すなわち陀羅尼にしても、呪にしても、真言にしても、それは神聖にして犯すべからざる仏の言葉であるのと、それにはきわめて深遠な意味が含まれているという所から、梵語の音を、そのままにこれを漢字に写すだけで、わざと翻訳しなかったわけです。したがって昔から、一般にこの般若の四句の呪文は、何がなしに、ありがたい功徳があるというので、そのまま翻訳せずに、信じ且つ誦となえていたのです。
しかし人間というものは妙なもので、いえないものを、いってみよ、というのが人間の癖です。とかく、見るな、というものほど、見たいものです。聞くな、といわれるほど、よけいに聞きたいものです。いや、するなといえば、よけいにやってみたいのが人情です。で、般若の真言も、そのわけは知らなくてもよい、ただそのまま唱えていれば功徳があるのだ、利益りやくがあるのだ、といった所でなかなか人間は承知しないのです。「いったいそれはどういう意味なのだ」「わけがわからないものを、むやみにありがたいといって、誦えることはできないではないか」というのです。むろん、それはまことに、一応無理もない話です。いったい人間は「考える動物」です。ギリシア語のアントローポスにしたところで、梵語のマヌシャにしたところで、それはいずれも人間という事ですが、その意味は「考えるもの」ということです。思い、考えるものが人間です。この意味において、あのパスカルが「人間は考える蘆(あし)」だといったことばは、非常に面白い、いや、趣があると存じます。全く人間は、あの水際に生えている蘆のように弱いものです。肉体はわずか一滴の水、一発の弾丸たまにでも、容易に斃たおれる、きわめてか弱いものです。しかしたとい、全世界が武装してかかっても、人間の中から「考える」という心を奪う事はできないのです。「人間は考える蘆」とは味わうべき、意味ふかい語ことばであります。よく考えるか、悪く考えるか、シッカリよく考えるか、よい加減に考えるか、はともかく、人間である以上、それはなにか、それはどういうわけで、それはどうして、などと考えることはむしろ当然です。
ではいったいこの般若の四句の呪文(じゅもん)は、どんな意味をもった言葉かと申しまするに、最前も申し上げたごとく、これは梵語の音をそのまま写したものです。原語でいうと「ガテイ、ガテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スバーハー」というのです。ところでいま、かりにそれをしいて翻訳してみると、最初の「掲諦ぎゃてい」とはつまり「往ゆくことに於いて」という意味です。だから、「掲諦、掲諦」と重ねていえば、それは「往くことにおいて、往くことにおいて」という意味です。ではいったい、「どこへ行くか」というと、そのつぎの「波羅掲諦はらぎゃてい」という語がそれを表わしています。すなわち、「向こうへ往く」ことなのです。ところで、「向こうへ往く」ということは、どんな意味かというと、それは、彼岸の世界へ行くことなのです。迷いの此岸から、悟りの彼岸へ行くことです。つまり、凡夫の世界から、仏の世界へ行くことなのです。弘法大師はこれを「行々ぎょうぎょうとして円寂えんじゃくに入る」と訳しています(般若心経秘鍵より、「ゆきゆきて涅槃に至る」の意)。次に「波羅僧掲諦はらそうぎゃてい」というのは、「波羅はら」は向こうという意味、「僧掲諦」とは到達する、結びつく、いっしょになる、というような意味です。したがって「波羅僧掲諦」ということは、凡夫が仏の世界へ到達して、仏といっしょになるということです。次に「菩提薩婆訶ぼじそわか」という事ですが、菩提は菩提ぼだいすなわち悟さとりのことです。「薩婆訶」は、速疾そくしつとか、成就じょうじゅとか、満足というような意味で、どの真言の終わりにも、たいていついている語ことばです。
以上ひと通り、この真言の意味を解釈しましたが、要するに『心経』の最後にある、この「掲諦掲諦」の四句の真言は、こういう風に解釈すればよいかと思います。
「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普あまねく一切の人々をみな行かしめ終わった。かくてわが覚さとりの道は成就された」
すなわち一言にしてこれをいえば、「自覚、覚他、覚行円満」ということです。すなわち「自ら覚さとり、他を覚さとらしめ、覚さとりの行ぎょうが完成した」ということで、それはつまり仏道の完成であります。しかもその仏道の完成こそ、まさしく人間道の完成であります。したがってこの四句の呪文は、単に『心経』一部の骨目こつもく、真髄しんずいであるのみならず、実に、八万四千の法門、五千七百余巻の、一切の経典の真髄であり、本質であるわけです。換言すれば、大小、顕密、聖道浄土しょうどうじょうど、仏教の一切の宗旨の教義、信条は、皆ことごとくこの四句の真言の中に含まれているのです。で、つまり、この真言の意味をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、機に応じ、時に臨みて、これを説き示したのが、今日の日本の仏教、すなわち十三宗五十八派の建前であるわけです。というのは、いうまでもなく大乗仏教の精神は、われらと衆生と皆共に仏道を成じょうぜんということです。同じく菩提心を発おこして浄土へ往生することです。したがって、それは決して自己独りの往生ではないのです。あくまで皆共にです。同じく菩提心を発おこすことです。私どもは、この真言の意味を理解することによって、はじめていっそう明瞭に『心経』が、どんな貴い経典であるか、いや、大乗仏教の眼目はどこにあるかを、ハッキリ知ることができるのです。あの弘法大師が、
「真言は不思議なり。観誦かんじゅすれば無明むみょうを除く。一字に千理を含み、即身に法如ほうにょを証す」(般若心経秘鍵)
といわれたのはそれです。般若の真言こそ、まことに不思議です。これを誦となえただけでも無明の煩悩まよいをとり除いて、悟さとりを開くことができるのです。「即身そくしんに法如ほうにょを証す」とは、そのままに、すみやかに、成仏するという意味です。ただし、漢訳のお経は、これでおしまいになっておりますが、梵語の原典にはこの真言の次に、「イテイ、プラジュニャー、パーラミター、フリダヤム、サマープタム」という語ことばがあります。ところで、これを翻訳すると、こういう意味になるのです。「といいて、般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょうを説き終われり」というのです。しかしこの語はあってもなくても、同じことですから、玄奘げんじょう三蔵は、わざとこれを省略せられて、ただ最後に「般若心経」という語だけを、つけ加えられたのであります。
以上はなはだ拙つたない講義ではありましたが、十二講にわたってだいたい一通り、「心経とはどんなお経か」「心経にはどんなことが書いてあるか」「心経はなにゆえ、天下一の経典であるか」というようなことを、ざっとお話ししたわけですが、最も深遠なこのお経を、私ごとき浅学菲才ひさいの者が講義するのですから、とうてい皆さまの御満足を得ることができなかったことは、私自身も十分に承知しておりますし、また貴いこの『心経』の価値を、あるいはかえって冒涜ぼうとくしたのではないかとも怖おそれている次第であります。古来、仏教では「法を猥(みだ)りに冒(おか)したものは、その罪、死に値す」とまで誡いましめておりますが、この意味において、私もおそらく、死に値する一人でありましょう。地獄へ落ちてゆく衆生の一人でありましょう。しかし、私はそれで満足です。
仏教への門
いったい古人もしばしばいっているように、仏教への門は、所詮しょせん「信」であります。信ずる心です。しかも信とは、愛し敬うこころです。仏教を愛し、敬い、これを信ずる心がなくては、とうてい、仏教をほんとうに知ることはできないのです。合掌する心持、南無なむする心、それはいずれも信心のしるしです。信仰の象徴です。南無とは、決して南みなみ無なしではありません。
坊さんがお経を読む時に、唱える枕詞まくらことばでもありません。南無とは、実に帰依することです。帰命の精神です。相手を絶対に愛し敬い、信頼することです。しかもその南無の心を形によって示したものが、「合掌」です。拝むことです。「右仏 左は我と拝む手の、うちぞゆかしき南無の一声」と古人は教えています。両手を合わす右の手は仏陀ほとけの世界です。左の手こそ、衆生の自分です。かくて、この両手を合わし、南無の精神に生きる所に、はじめて、私どもは、ほんとうに仏我れにあり、我れに仏あり、との安心あんじんを得ることができるのです。いくらラジオの放送はあっても、これを聴く機械を持たない人には、ないと等しいのです。しかもたとい聴く機械があっても、スイッチを入れておかなくては、機械がないと同じです。常恆じょうご不断に、絶えず放送しておられる、仏の説法も、「合掌」と言う機械があり、「南無」という電流を通じてこそ、はじめて、はっきりと聞くことができるのです。にもかかわらず、とかく私たちは、どういうものか、ひたすら科学的立場から、ものを見ることになれて、ただ、聞こえないから、ない、見えないから、ないとすぐに判断してしまうのです。しかし、ものが見えないから、ないのではありません。見ないから、ないように思うのです。聞こえないから、ないのではなくて、聞かないから、ないと思うのです。見ようとしないもの、聞こうとしないものには、何事もないと同様です。
いったい機縁というか、契機というか、機会チャンスというか、とにかく「縁」というものは不思議なものです。「縁なき衆生は度し難い」などと、昔からいっていますが、縁のないものには、如何いかんともし難いのです。西洋の諺ことわざにも、「機会チャンスは前の方には毛があるが、後には毛がない。機会チャンスが来た時、捕えればよいが、一度とり逃がしたら最後、脚あしの早いあのジュピターの神でさえ、捕えることができない」といっております。全くその通りです。私どもには、機会の来るのを待つ、時節の到来を待つ、待機の姿勢が必要です。運は寝て待て、ではなくて、少なくとも練ってまてです。かりに説くべき人があっても、聞くべき人がなければ、説くことはできません。また聞くべき人はあっても、説くべき人がなければ、聞くことができないのです。説く人と、聞く人との因縁が相応し、和合する所に、はじめて聞く事もでき、説く事もできるのです。
何事も、世の中の事は、みな「縁」です。しかしその「縁」は、たちまちにして来きたり、またたちまちにして去るのです。因縁はすべて「一期一会」です。聴くべき時に聞き、味わう時に味わわねば、いつになっても聞く事もできなければ、また知る事もできないのです。世に「急いで結婚して、ゆっくり後悔する」という諺もありますが、それはあながち結婚にかぎったことではないのです。いたずらに急ぐ必要もありませんが、しかし、「仏法には明日というべきことあるべからず」と古人も誡めています。いつもいつも、「明日」と約束ばかりしていると、永遠に仏教を味わい、人生のほんとうの意味と価値をあきらめずに死んでゆかねばなりません。すべからく私どもは因縁に随順してすみやかに般若の智慧ちえを磨みがく事によって、まさしくさとりの世界をハッキリ味得せねばなりません。(注、瀬戸内寂聴師であったか「刹那の仏縁に感応する」ことが大切、という趣旨のことを書いているのを覚えています。私自身17年にはじめて徒歩四国遍路成満、20年の閏年には四国逆打で言葉にできない有難いご縁を頂いたのも、21年に求聞持を太龍寺で成満できたのも、いずれも師と仰ぐ方が勧めてくださったからその気になったのです。不思議なめぐりあわせでで口には語り得ぬ有難い体験をできたことを仏様に感謝もうしあげています。)