福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その41

2014-03-19 | 講員の活動等ご紹介

第四一課 体育

 一時、「自然に還れ、自然に還れ」という声が盛んでした。近頃の青年男女はそんなことを叫ぶ代りに直ちに実行に移して、大空の下、大地の上を、天幕テント旅行にハイキングに、登山にスキーに、競走に水泳に、ドライヴに乗馬に、積極的に自然へ向って飛び出して行きます。そして浩然の気を養っております。これは誠に結構なことであります。しかし、そういうことをするのに、時間と費用との余裕がない人も随分多いのであります。又、日常の劇務にすっかり疲れ果てて、何を好んでこれ以上体を疲らせなければならないのかとさえ言う人もありましょう。がしかし、不自然な毎日の生活に一定の秩序と生気を与え、意志を強固にするには、やはり仕事そのものの中にか、あるいは別のことで自然の運動法則に適った体育法を工夫することが必要ではないかと思います。
 私は嘗て、墺国オーストリーの首都ウィーンで、体育家の人気者ホーエンスタインという人に面会しまして、親しく氏の自然運動科学の実地を見せて貰いました。私は全くその突飛さに一驚しました。ところはウィーン市のコニー島というところにある自然運動学校でありました。
 まず氏の説明を聴きますと、
 私たちは間違った仕方で体を動かしているそうです。そのため私たちの筋肉はだんだん元来もとからの機能はたらきを失って行きつつあると言われました。また私たちの体の支えかたも本当でないため、体の均斉つりあいがとれてない。誰もかもみんな、どこかがおかしくなっていると言いました。それから、私たちの動き方、歩き方は、ちょうどあの羽ばたきはするが飛ぶことの出来ない牝鶏めんどりのようなものだ。我々は靴を発明したために、非常に足尖つまさきや膝の本来の使い方を忘れてしまった。人間と獣類けだものとの間に身体の構造についてさほどの大差がないのに、人間の体の動かし方や歩き方は獣類に比して、まるで竹馬に乗っかって歩くように(木に竹をついだように)全く不自然にゴツゴツとぎこちなく歩く、そして直ぐ疲れてしまい、かつ歩きぶりが不意気なものだ。そればかりでなく、我々の身体のいろいろの器官の運用法にもひどく間違いがある。それらのために我々はますます弱くなって行きつつある。人類の身体はギリシャ、ローマ時代(日本の上古・大和時代)を頂上として漸次退化しつつありと叫ばれるに至ったのもこの不自然な体の扱い方に依るのだ。誠に上古のギリシャ人は殆んど素足に近き恰好で、獣類の速歩はやあし、普通駈歩かけあし、伸暢駈歩ギャロップと同じ体形で体を動かしていた。すなわち人間の本来の動作をなしていたことが、当時の絵画や模様物で推察することが出来る。彼らは今日の我々が坐ったり歩いたりする仕方は夢にも知らなかったのである。今日スポーツマンにしてこの自然的動作を活用しているものはほんの僅かに過ぎない。大抵のものは誤れる型によって動作するので、本当の能率を挙げ得ないのだ。スポーツマンの内でも水泳の選手が一番自然法を採用している。旧式の胸泳ぎは伸暢駈歩型であり、クロル式水泳法は水平駈歩の型であると説明せられました。
 それから氏は独特の体育法を紹介されました。それは、人間は昔の完全な身体の機能はたらきを取り戻すために、時々獣類のように動くことを稽古しなさい。骨格といい筋肉といい、殆んど同様な人間と獣類が、一つは垂直に立ち上って動き廻り、一つは四つ足で水平に体を保って動き廻る。この両者の身体使用法を比較して考えるとき、いずれが最も安易かつ根本的であるか。大人の人間は立つことを普通に考えるが、乳児時代の這い廻る人間の子の速さを観察するとき、あれがあのまま二十年三十年這い廻り続けたら、どんなに素早すばしっこく這い廻り、跳ねられることであろう。氏は、自分は決して、今さら愚かしく人間の還猿運動(猿のようになること)を勧めるのではないと弁解されました。ただ人間が忘れている大切な動作の基本法則を取り戻して、これを我々の日常生活や、いろいろの体育競技(例えば乗馬、競争歩行、拳闘、水泳、ダンス等)に応用して、以てその能率を上げさせ、身体のエネルギー浪費の軽減を計ろうと企てられたのであります。実際に獣類の身軽に、なめらかに、しかも正確に歩く形をよく観取して、それを時折自身に応用してみると最初は窮屈だが、次第に楽になり、体も丈夫になり、内臓や筋肉や骨格関節など全部が自然に調節せられて来る。頸の神経痛も頭がぼんやりしたのも、関節や筋肉のリウマチも、胃腸や心臓の弱いのも自然と癒って来ると氏は説明しました。
 次に、氏は、実地に練習し体得している学生の様子を見学させてくれました。ウィーン市内の青年男女の有志者が、芝生の上で終日、四つん這いになって暮しているのでした。あるものは山羊のとおりの格好で跳ね廻り、あるものは馬の真似して跳躍はねおどりし、またあるものは猟犬のごとく走り廻っていました。水泳タンクでも魚猿うおざる(尾のない、水泳を好む猿)の真似して游ぎ廻るのがありました。
 氏自身も、馬の跳躍の模範を示されました。まず最初に馬に障碍物ハードル(垣)を跳び越えさせ、次に氏が、その型をそっくり真似てハードルを跳び越えられた。その順序を述べると、まず膝を屈縮し、差し出した両手で拳を握り、跳び上って垣ハードルを越えると同時に膝を曲げ、手と頭を下へ向けて下り、地へ着くとき掌を開いて両手で地につき、次いで両足の足尖つまさきで地に完全に下りるのでした。
 その後で学校の森林へ入り、掌と足尖とで森の空地をかもしかのように四つん這いになって跳び歩き、またいろいろの他の獣の歩きかたを示されました。特に人間の横っ跳びが馬の伸暢駈歩ギャロップを真似ると非常にうまく行くことまで実地にやって見せました。
 最後に、氏専用の水泳プールで愛育の魚猿の後について、猿の飛び込み方、水くぐり、水の切り方などを真似られました。
 氏が自然運動によって得られた均斉の取れた体格とその機能はたらきに私は感じ入りました。
 日本でも、現在、九州で、ある青年が肺病にかかって、相当費用を惜しまず医療を加えましたが、どうも体が弱るばかりでしたので、医者から体育と養生の根本を聴いてヒントを得、一大決心で家人達と水盃をなし、深山に分け入って全く野獣のように四つん這いの生活を断行し、山泉を呑み、草木の芽や葉を喰べて五年の後、遂に頑丈の山男となって人家に帰って来た事実談を私は聴きました。
 以上私は長々と述べましたが、これを以てみなさんに、たとえ時たまとはいえ、今さら獣類の真似をして這い廻り、跳ね躍ったり、木へ登ったり、水泳したりしなさいと勧めるのではありません。自然の中には、生の逞しさと同時に野蛮性があります。すなわち理想的なものと、理想的でないものとがありますから、その理想を採り上げ、非理想を捨てるということが仏教精神であることの実例としてあげました。かように理想を採り上げることは、体育においてもいろいろの方法手段がありますから、私たちの日常多忙の生活上にも自由にその適当なものを見付けて、健康になられることを祈ります。(四国遍路では数えきれない人が病から回復していますが山野を歩き回る時自然と太古の昔の人類に帰っていき自然治癒力を身に着けるのではないかと思います。)
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