「一代要記」に(文永十一年1274十月)「同十三日、異國軍兵壹岐島に亂入す、同十四日、彼の島の守護代荘官以下悉く打取らる云々」
(守護平景隆は、樋詰城から、家来100余騎で応戦しましたがあっという間に殲滅されています。壱岐では蒙古軍は老人、子供、男はすべて切り殺し、赤ん坊は股裂き、妊婦はお腹を切り裂き、お腹の中の胎児を殺し、女は集めて乱暴、暴行の後で、手に穴を開けて綱を通して、数珠(じゅず)つなぎにして、船に運び、船の横に吊るしたとされます。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi81dqy4JLsAhUGfnAKHSvdCC4QFjADegQIAhAC&url=https%3A%2F%2Fwww.sankei.com%2Fwest%2Fnews%2F140614%2Fwst1406140068-n1.html&usg=AOvVaw29XKnLPTdo6M7qpMZCIPXp)