Q,末世の僧は修行もしないで退廃しているので供養することは無益と思うが如何?
A, 佛在世のときは生身の如来を仏宝と名ずけ、その説法を法宝と称し、その教化を助け給う賢聖を僧宝と号した。仏滅後の末法の時は木像絵象等を佛宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じるように、髪をそり袈裟をかけたる者を僧宝と崇むべきである。大集月蔵経にも「破戒僧なりとも、皆是仏子なり。これを謗せば佛を謗するなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せばこの人無量の福を得べし」とある。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・16
問、末世は禪・教・律の僧もみな名利に走りて行道はすたれたり。かようの僧を供養せらるることあたらず。かやうの僧の居所を伽藍とてさのみ所領を寄えられ修造とて人をわずらわし給ふこと無益なりと申す人あり。
答、・・佛在世のときは生身の如来を仏宝と名ずけ、その金口の説法を法宝と称し、その佛化を助け給ひし賢聖を僧宝と号す。仏滅後末法の時は木像絵象等を佛宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じ、髪をそり袈裟をかけたる者を僧宝と崇むべし。これすなわち末世住持の三宝なりと聖教に定め置けり。真実の三宝は塵沙法界に遍満したへども末世に生まれたる人は皆宿善薄きゆえにかやうの仏僧を拝むこともなし。その法門を拝聴することも能わず。しかれども絵にかき木を刻める仏像を礼拝し文字にて伝へたる経論を受持し、髪をそり袈裟をかけたる僧侶を供養し給ふはありがたき善縁にあらずや。・・・もし人末世の住持の三宝を供養せらるる信心の深きこと、佛在世の三宝を供養せし人に変わらずは、功徳を受くることもまた変はるべからず。然らば則ち僧宝の衰へたることを誹り給はんよりは自身の信心の古に及ばざるゆえに仏法をも軽忽し僧侶をも誹謗して罪業を招く因縁とはなれども功徳を得る福田にはあらざることを歎き給ふべし。・・・真佛真詮にはあらぬ仏像経巻をばさすがに信心を致し給へるひとも、僧宝をば真僧にあらずとて一向に嫌ひ捨て給ふことそのいわれあるべしや。
大集月蔵経にいはく「未来末世の時、我が法の中に於いて頭を剃りて袈裟をかけたりといへども、禁戒を破りて放逸なるものあるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆是仏子なり。これを謗せば佛を謗するなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せばこの人無量の福を得べし。・・佛を無上の宝とす、佛なきときは菩薩を無上とす、菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ、得定の凡夫を無上とす、得定の人なければ持戒の人を無上とす、持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭を剃り袈裟をかけたる者を無上宝とす、余の外道にくらぶれば最尊第一なり。汝ら諸天・諸龍・諸夜叉、我が弟子を擁護して仏種をして断絶せしむることなかるべし云々」…木の切れをそのままにて打ち置きたる時は善にもならず悪にもならず。若しこの木のきれを佛の形に刻みて真佛の想に住して恭敬し奉らば功徳を得ること真佛にことならず。もしまたこの木を軽慢に奉らば罪業を得ること疑ひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。いはんや人たるものは皆仏性あり、たとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せれば福田となり、誹謗せられば罪業を招き給はんこと疑ひあるべからず。梵網経には「五百羅漢を別請せむよりは尊卑親疎を択ばずして一人の凡夫僧を次第請(順次招く)にすることはその功徳まされり」と説けり。
・・僧の破戒無慚なるをみてこれを誹謗して我は在家人なればかやうなるも苦しからずと思ひ給へるは、僻案(偏った考え)なり。一生の報命尽きて閻魔王の前に到りたまはんとき、この人は俗人なれば日頃の罪業苦しからずととて、地獄を免じたまはんや。聖教に仏弟子の過をそしるを制することは必ずしも仏弟子をかたひくよしにはあらず。これを謗して仏法を破壊し大罪を得ることを制せむためなり。・・・さればとて僧家の破戒無慚なるを苦しからずと申すにはあらず。俗人は僧家の振る舞いの正理ならぬをみて誹謗の罪業を忘れたまへり。僧家はまた・・ひがごとなりととがめもうさる、あはれ、げに、打ち返して僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家に持ちたまへることならば濁世もやがて正法となりなまし。
A, 佛在世のときは生身の如来を仏宝と名ずけ、その説法を法宝と称し、その教化を助け給う賢聖を僧宝と号した。仏滅後の末法の時は木像絵象等を佛宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じるように、髪をそり袈裟をかけたる者を僧宝と崇むべきである。大集月蔵経にも「破戒僧なりとも、皆是仏子なり。これを謗せば佛を謗するなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せばこの人無量の福を得べし」とある。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・16
問、末世は禪・教・律の僧もみな名利に走りて行道はすたれたり。かようの僧を供養せらるることあたらず。かやうの僧の居所を伽藍とてさのみ所領を寄えられ修造とて人をわずらわし給ふこと無益なりと申す人あり。
答、・・佛在世のときは生身の如来を仏宝と名ずけ、その金口の説法を法宝と称し、その佛化を助け給ひし賢聖を僧宝と号す。仏滅後末法の時は木像絵象等を佛宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じ、髪をそり袈裟をかけたる者を僧宝と崇むべし。これすなわち末世住持の三宝なりと聖教に定め置けり。真実の三宝は塵沙法界に遍満したへども末世に生まれたる人は皆宿善薄きゆえにかやうの仏僧を拝むこともなし。その法門を拝聴することも能わず。しかれども絵にかき木を刻める仏像を礼拝し文字にて伝へたる経論を受持し、髪をそり袈裟をかけたる僧侶を供養し給ふはありがたき善縁にあらずや。・・・もし人末世の住持の三宝を供養せらるる信心の深きこと、佛在世の三宝を供養せし人に変わらずは、功徳を受くることもまた変はるべからず。然らば則ち僧宝の衰へたることを誹り給はんよりは自身の信心の古に及ばざるゆえに仏法をも軽忽し僧侶をも誹謗して罪業を招く因縁とはなれども功徳を得る福田にはあらざることを歎き給ふべし。・・・真佛真詮にはあらぬ仏像経巻をばさすがに信心を致し給へるひとも、僧宝をば真僧にあらずとて一向に嫌ひ捨て給ふことそのいわれあるべしや。
大集月蔵経にいはく「未来末世の時、我が法の中に於いて頭を剃りて袈裟をかけたりといへども、禁戒を破りて放逸なるものあるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆是仏子なり。これを謗せば佛を謗するなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せばこの人無量の福を得べし。・・佛を無上の宝とす、佛なきときは菩薩を無上とす、菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ、得定の凡夫を無上とす、得定の人なければ持戒の人を無上とす、持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭を剃り袈裟をかけたる者を無上宝とす、余の外道にくらぶれば最尊第一なり。汝ら諸天・諸龍・諸夜叉、我が弟子を擁護して仏種をして断絶せしむることなかるべし云々」…木の切れをそのままにて打ち置きたる時は善にもならず悪にもならず。若しこの木のきれを佛の形に刻みて真佛の想に住して恭敬し奉らば功徳を得ること真佛にことならず。もしまたこの木を軽慢に奉らば罪業を得ること疑ひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。いはんや人たるものは皆仏性あり、たとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せれば福田となり、誹謗せられば罪業を招き給はんこと疑ひあるべからず。梵網経には「五百羅漢を別請せむよりは尊卑親疎を択ばずして一人の凡夫僧を次第請(順次招く)にすることはその功徳まされり」と説けり。
・・僧の破戒無慚なるをみてこれを誹謗して我は在家人なればかやうなるも苦しからずと思ひ給へるは、僻案(偏った考え)なり。一生の報命尽きて閻魔王の前に到りたまはんとき、この人は俗人なれば日頃の罪業苦しからずととて、地獄を免じたまはんや。聖教に仏弟子の過をそしるを制することは必ずしも仏弟子をかたひくよしにはあらず。これを謗して仏法を破壊し大罪を得ることを制せむためなり。・・・さればとて僧家の破戒無慚なるを苦しからずと申すにはあらず。俗人は僧家の振る舞いの正理ならぬをみて誹謗の罪業を忘れたまへり。僧家はまた・・ひがごとなりととがめもうさる、あはれ、げに、打ち返して僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家に持ちたまへることならば濁世もやがて正法となりなまし。