大師の時代(榊亮三郎)その2
大師の時代を論ずるには、當時の日本と支那とを了解せねばならぬが、當時の日本は、今日の日本とは異つて居つて、とりたて、世界に對し誇るべき程の文明はなかつた、すこし、矯激に亘る嫌はあるかも知れませぬが、當時大師の活動せられて居た奈良や京都の都は、要するに、支那の摸倣であつて、其の都に居つて、全日本を支配する位置に居られた方々の思想、並に好尚は、一に支那の摸倣に過ぎない、今日宮内省の所轄である正倉院の御物を、私は拜觀いたしたことがありましたが、同時に、近頃支那や、中央亞細亞などで、發掘した唐代のものと覺ぼしき美術文書などを見て、竊かに比較憶度致しましたが、從來、奈良の古社寺などで、何々天皇の御宸筆であるとか、何々皇后の御筆であるとか、又は何々大臣の作であるとか傳へられました古經古書などは勿論、古美術品でとりましても、果して、所傳のごとく、僞でないとすれば、實に眞に逼つた支那の摸倣であつて、如何にして、かくまで、眞物に似たものを摸倣し得たかと疑はるゝ次第であるが、これを以てしても、當時の上流社會が、如何に支那に文物を好尚したかが明瞭である、しかし、自分の考へでは摸倣にしても當時かくまで巧になし得たか否やを疑ふもので、平安朝の初は暫らく論ぜぬことにして奈良朝の中葉のつきて論して、見ますに當時の知識ある階級、即ち卿相僧侶の方々が、正倉院御物に於て、或は、奈良の古社寺などに存在する文書、繪畫等を自分の力で製作し得た程、進んで居つたか、どうか、甚だ疑はしい、自分の信ずる所では、某卿の作とか、某大臣の作だとか、或は何某の高僧の手に成つたものだとか云はるゝものゝ中に、支那朝鮮からの輸入品と認むべきものは甚だ多い、殊に古經などは、豊滿含潤、見るからに、骨董好きの人々に埀涎せしむる樣なものは、當時の純粹の日本人が書いたものでない、皆支那からの輸入したものか、支那の寫經生が書いたもので、現に正倉院の御物の中に、當時の日本人が、確かに書いた文書もありますが、比較して見ますると、書の巧拙に於て、雲泥の差があります、奈良朝の中葉に於ける支那の書風の摸倣は、未だ其の堂に上つたとは、思はれない、以上云ふたことは、必ずしも、區々たる書風につきてのみ云ふのではない、美術工藝の上でも、これに類したことゝ思ふ、今日保存せられて居る美術上の逸品は、或は、支那、朝鮮の歸化人が、作つたものか、然らざれば、輸入したものであると云ふのは、私の斷言して憚らぬ所である、もし當時の日本人が、日本にのみ居つて、支那の美術工藝の品を摸倣したものがありとすれば、これを支那の手本と比較すると、其の差は、盖し、巴里の春の「サロン」と、文部省が毎年東京の上野で開催する展覽會との差以上のものあつたと確信する次第である、しかし、繪畫と彫刻とか、工藝とかは、ともかくも、目で見れば、わかるもので、所謂胡蘆によりて、樣を畫き、支那傳來の樣式を墨守して、正直に摸倣すれば、精神はとても移すことは出來ぬとしても、形式だけは、具備することは、左程の難事でない、獨り、宗教や學術の如きは、其の主要なる所は、精神の機微に存する次第であるから、これを外國より傳へ來るにしても、傳へるものは、先づこれを會得し體得して、自分のものとせねばならぬ、殊に學術の中でも、哲學などは、たゞ/\書物ばかり讀んで、字義ばかり、たどつたとて、會得が、出來るものでなく、又宗教の中でも、形式の部分は、比較的移植され易いが、教相の部分は、哲學と同じく、暗默の中に悟入することを要する所がある、師資相對して、問ふことを得ず、教ふる事の出來ぬ部分がある、隱約の間に、双方の心が融會することを必要とする部分がある、かゝる次第であるから、如何に留學生を送り、如何に明師を迎へても、又如何に書籍を輸入しても、到底充分會得せられぬ部分があることは、免れない、奈良朝の佛教と云へば、先づ指を法相三論華嚴に屈するが、かゝる哲學的宗教は、これを輸入するには、如何に書籍を輸入し、又留學生を送りたりとて、完全に、會得せられ、領解せらるゝには、幾多の歳月を必要とする次第でありて、要は、俊邁達識の士が、良書を得て、其の中に於て、自己を發見するか、然らざれば、明師に遭うて、其の意見は、自己の考へと默契する所があつて、始めて、完全に、教は了解せられ、師資相傳するものである、しかし良書は、孰れの世でも得難い、明師と俊邁達識の士とは、遇ひ難きものである、されば、奈良朝の佛教と云ふものは、輸入佛教ではあるが、其の當時、輸入の困難であつたことは、想見に餘ある次第で、早い話が法相宗の輸入である、これは、更めて申すまでもなく、玄奘三藏が、渡天の上、戒賢其の他の論師から受けて、唐土に輸入したものであるが、かゝる教義は、本來發生の土地の語で書いたものならば、其の語に通したものが、讀めば比較的了解には困難ではなからうが、日本がこれを傳へたは、玄奘の支那から傳へたもので、支那語の學習が、當時已に日本の人々には、一大事業であるに加へて、衣裝は支那語であつても、中身は、印度思想であるから高遠な概念を有した哲學上の術語が多い、故に、日本から、支那に出掛けて學ぶにも、一人や二人の力の及ぶ所でない、第一には、孝徳天皇の白雉四年に、元興寺の道照が入唐し、玄奘につきてこれを學んだが、次には、觀音寺の、智通智達が、齊明天皇のときに、入唐して、同じく玄奘につきて、これを受け、又も、文武天皇の大寶三年に、智鳳だとか、智鸞だとかと云ふ連中が、入唐して、智周から學んで、日本に傳へ、又も、元正天皇の靈龜二年に、玄が入唐して、同じく、智周から受けたとの事であるが、かくの如く、一法相宗の輸入でも、道照から始まつて、玄に至るまで、我が國の俊才の士が、數度入唐し、時代は六十有餘年からかゝつて居る、其の後とても、屡々留學生を送つて、法相宗の教義を學習さして居るが、これでも、當時、果して完全に、玄奘や慈恩大師の著作が、日本に於て、了解せられたか否やは、私どもの大いに疑ふ所である、もし了解されて居つたと云ふ人があれば、何時でも、其の然らざる所以を擧證し得る積りである、宗教にしても、文學にしても、美術にしても、奈良朝の全部平安朝の初期のものは、要するに、支那朝鮮よりの輸入品でなくば、其の摸倣であることは、私の確信する所であり、又世間一般の定説であると信ずるから、特に喋々する必要はなきことゝ思ふ、しかし、其の輸入又は摸倣の迅速であつたことは、世間一般の想像するよりも、一層迅速であつたことは、私の又信じて疑はぬ所であります、玄奘が、印度から歸りて、戒賢論師から法相宗を傳へると、日本から早速道照が出掛けて、其の弟子の窺基、即ち慈恩大師と同宿の上で、教旨を學ぶとか、義淨三藏が印度から歸りて來て、一切有部の律が翻譯せられ、從來支那で闕けてあつた律も、漸く補足せられた爲めと、又其の少々以前で、道宣や懷素等の、諸高僧が、律のことを、喧しく唱導した爲とであるが、支那には、律宗の氣勢が加はつたと思ふと、やがて、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道璿律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、
大師の時代を論ずるには、當時の日本と支那とを了解せねばならぬが、當時の日本は、今日の日本とは異つて居つて、とりたて、世界に對し誇るべき程の文明はなかつた、すこし、矯激に亘る嫌はあるかも知れませぬが、當時大師の活動せられて居た奈良や京都の都は、要するに、支那の摸倣であつて、其の都に居つて、全日本を支配する位置に居られた方々の思想、並に好尚は、一に支那の摸倣に過ぎない、今日宮内省の所轄である正倉院の御物を、私は拜觀いたしたことがありましたが、同時に、近頃支那や、中央亞細亞などで、發掘した唐代のものと覺ぼしき美術文書などを見て、竊かに比較憶度致しましたが、從來、奈良の古社寺などで、何々天皇の御宸筆であるとか、何々皇后の御筆であるとか、又は何々大臣の作であるとか傳へられました古經古書などは勿論、古美術品でとりましても、果して、所傳のごとく、僞でないとすれば、實に眞に逼つた支那の摸倣であつて、如何にして、かくまで、眞物に似たものを摸倣し得たかと疑はるゝ次第であるが、これを以てしても、當時の上流社會が、如何に支那に文物を好尚したかが明瞭である、しかし、自分の考へでは摸倣にしても當時かくまで巧になし得たか否やを疑ふもので、平安朝の初は暫らく論ぜぬことにして奈良朝の中葉のつきて論して、見ますに當時の知識ある階級、即ち卿相僧侶の方々が、正倉院御物に於て、或は、奈良の古社寺などに存在する文書、繪畫等を自分の力で製作し得た程、進んで居つたか、どうか、甚だ疑はしい、自分の信ずる所では、某卿の作とか、某大臣の作だとか、或は何某の高僧の手に成つたものだとか云はるゝものゝ中に、支那朝鮮からの輸入品と認むべきものは甚だ多い、殊に古經などは、豊滿含潤、見るからに、骨董好きの人々に埀涎せしむる樣なものは、當時の純粹の日本人が書いたものでない、皆支那からの輸入したものか、支那の寫經生が書いたもので、現に正倉院の御物の中に、當時の日本人が、確かに書いた文書もありますが、比較して見ますると、書の巧拙に於て、雲泥の差があります、奈良朝の中葉に於ける支那の書風の摸倣は、未だ其の堂に上つたとは、思はれない、以上云ふたことは、必ずしも、區々たる書風につきてのみ云ふのではない、美術工藝の上でも、これに類したことゝ思ふ、今日保存せられて居る美術上の逸品は、或は、支那、朝鮮の歸化人が、作つたものか、然らざれば、輸入したものであると云ふのは、私の斷言して憚らぬ所である、もし當時の日本人が、日本にのみ居つて、支那の美術工藝の品を摸倣したものがありとすれば、これを支那の手本と比較すると、其の差は、盖し、巴里の春の「サロン」と、文部省が毎年東京の上野で開催する展覽會との差以上のものあつたと確信する次第である、しかし、繪畫と彫刻とか、工藝とかは、ともかくも、目で見れば、わかるもので、所謂胡蘆によりて、樣を畫き、支那傳來の樣式を墨守して、正直に摸倣すれば、精神はとても移すことは出來ぬとしても、形式だけは、具備することは、左程の難事でない、獨り、宗教や學術の如きは、其の主要なる所は、精神の機微に存する次第であるから、これを外國より傳へ來るにしても、傳へるものは、先づこれを會得し體得して、自分のものとせねばならぬ、殊に學術の中でも、哲學などは、たゞ/\書物ばかり讀んで、字義ばかり、たどつたとて、會得が、出來るものでなく、又宗教の中でも、形式の部分は、比較的移植され易いが、教相の部分は、哲學と同じく、暗默の中に悟入することを要する所がある、師資相對して、問ふことを得ず、教ふる事の出來ぬ部分がある、隱約の間に、双方の心が融會することを必要とする部分がある、かゝる次第であるから、如何に留學生を送り、如何に明師を迎へても、又如何に書籍を輸入しても、到底充分會得せられぬ部分があることは、免れない、奈良朝の佛教と云へば、先づ指を法相三論華嚴に屈するが、かゝる哲學的宗教は、これを輸入するには、如何に書籍を輸入し、又留學生を送りたりとて、完全に、會得せられ、領解せらるゝには、幾多の歳月を必要とする次第でありて、要は、俊邁達識の士が、良書を得て、其の中に於て、自己を發見するか、然らざれば、明師に遭うて、其の意見は、自己の考へと默契する所があつて、始めて、完全に、教は了解せられ、師資相傳するものである、しかし良書は、孰れの世でも得難い、明師と俊邁達識の士とは、遇ひ難きものである、されば、奈良朝の佛教と云ふものは、輸入佛教ではあるが、其の當時、輸入の困難であつたことは、想見に餘ある次第で、早い話が法相宗の輸入である、これは、更めて申すまでもなく、玄奘三藏が、渡天の上、戒賢其の他の論師から受けて、唐土に輸入したものであるが、かゝる教義は、本來發生の土地の語で書いたものならば、其の語に通したものが、讀めば比較的了解には困難ではなからうが、日本がこれを傳へたは、玄奘の支那から傳へたもので、支那語の學習が、當時已に日本の人々には、一大事業であるに加へて、衣裝は支那語であつても、中身は、印度思想であるから高遠な概念を有した哲學上の術語が多い、故に、日本から、支那に出掛けて學ぶにも、一人や二人の力の及ぶ所でない、第一には、孝徳天皇の白雉四年に、元興寺の道照が入唐し、玄奘につきてこれを學んだが、次には、觀音寺の、智通智達が、齊明天皇のときに、入唐して、同じく玄奘につきて、これを受け、又も、文武天皇の大寶三年に、智鳳だとか、智鸞だとかと云ふ連中が、入唐して、智周から學んで、日本に傳へ、又も、元正天皇の靈龜二年に、玄が入唐して、同じく、智周から受けたとの事であるが、かくの如く、一法相宗の輸入でも、道照から始まつて、玄に至るまで、我が國の俊才の士が、數度入唐し、時代は六十有餘年からかゝつて居る、其の後とても、屡々留學生を送つて、法相宗の教義を學習さして居るが、これでも、當時、果して完全に、玄奘や慈恩大師の著作が、日本に於て、了解せられたか否やは、私どもの大いに疑ふ所である、もし了解されて居つたと云ふ人があれば、何時でも、其の然らざる所以を擧證し得る積りである、宗教にしても、文學にしても、美術にしても、奈良朝の全部平安朝の初期のものは、要するに、支那朝鮮よりの輸入品でなくば、其の摸倣であることは、私の確信する所であり、又世間一般の定説であると信ずるから、特に喋々する必要はなきことゝ思ふ、しかし、其の輸入又は摸倣の迅速であつたことは、世間一般の想像するよりも、一層迅速であつたことは、私の又信じて疑はぬ所であります、玄奘が、印度から歸りて、戒賢論師から法相宗を傳へると、日本から早速道照が出掛けて、其の弟子の窺基、即ち慈恩大師と同宿の上で、教旨を學ぶとか、義淨三藏が印度から歸りて來て、一切有部の律が翻譯せられ、從來支那で闕けてあつた律も、漸く補足せられた爲めと、又其の少々以前で、道宣や懷素等の、諸高僧が、律のことを、喧しく唱導した爲とであるが、支那には、律宗の氣勢が加はつたと思ふと、やがて、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道璿律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、