福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが19日の定例会の報告を書いてくださいました

2012-05-29 | 開催報告/巡礼記録
福聚講・護国寺定例参拝会第5回会合が、5月19日(土)午後2時から、同寺本堂で行われました。この日は、雲ひとつない青空が広がり、境内の木々の若緑の若葉が、さわやかにそよいでいました。前日の、晴れ間があったり、時には、雨模様で、しぐれたり、気温も、寒暖定まらない日でしたが、この日は、打って変った、参拝会に、ふさわしい天候でした。

巡拝は、いつもの通り、高原耕昇耕講元様が、内陣で鐘を叩きながら、導師を務め、開経偈、般若心経、観音経、それに、この日は、護国寺で編纂、発行している、「真言宗勤行法則」にのっとり、「祈願」それにつづく、10の菩薩の真言、そして、13仏真言をお唱えしました。講員の勤めとして、一日の始め、一人で、御勤めをすることもさることながら、心を合わせて、講員の仲間みなさんと共に、大声をあげ、かりに、唱え間違っても構いません。発声することにより、皆と共に、心を合わせ、御本尊のおん前で、勤行することは、共生・連帯感を感じさせ、心洗われるひと時です。

前日の18日は、同寺の、御本尊である、如意輪観世音菩薩を拝観できる、御開帳の日(毎月18日は、御開帳の日)でしたが、この日は翌日とあって、残念ながら、拝観できませんでした。その代わり、本堂の後方のひな壇に、おまつりされている、33像の観音様を、一体一体拝観する事が出来ました。なにも、この日に限った事ではなく、いつも、33身仏は、目に映っているのですが、ただ有り難く、合掌礼拝し,通り過ぎるだけでした。

しかし、この日は、33観音像から、私に対して、何か問いかけをなされてきた感がしたものでした。33観音像は、後方左側のひな壇に、17体、右側には、16体の神仏が、安置されています。それぞれの神仏像は、煌びやかな彩色が施され、これらの神仏像は、高さ85センチ有り、330年前の、江戸時代に造営されたものにも関わらず、色褪せることなく、美しさを保っています。

私事で、恐縮ですけれども、この日、私は、体調絶不調で、気力体力共に、萎えていました。私という、人間は、悲しいもので、信じれば信じるほど、体の隅々から、悩み、苦しみ、不安が、募ってくるように思われます。そんな、不安定な精神状態のまま、かすかな、救いを求めて、参拝会に参加したのでした。

恐らく、こうした精神状態であったため、神経が過敏になっていたのでしょう。いましがた、お唱えした「観音経」で、仏様が、悩み苦しむ人たちを救うため、観音様に姿を変えて、苦しみを訴える、人たちに、慰め、救えるように、その人の感応の仕方にに合わせて、33の仏像に、姿を変えて、相対する様を、お唱えしたのですが、33体の神仏像は、まさしく、私の、目に見える身姿で、今ここに、現われておいでになる。すごく、身近な存在に、感じたものでした。
また、本堂には、堂宇を支える、太い柱が52本あり、欅で作られているそうです。この柱は、紀伊国屋文左衛門が、提供して、造営されたといはれ、330年の間、本堂で営まれた、修行や、熱心な信者たちが、祈りを奉げた祈願や、お経を聞き、沁み込ませてきていることから、この柱に、無心に抱きついて、願をたてれば、叶えられる「開運柱」と言われているそうです。残念な事には、こうした、故事逸話を、後から知り、この日は、抱き抱えてきませんでした。

次回は、抱きかかえてみたいと思っています。毎回、こうして、訪ずれている、護国寺ですが、参詣する度に、未知の発見があるのも、楽しみの一つになりました。

帰りには、いつものように、茶話会を催し、高原講元様の、“法話”や、講員、参加者の皆さんの、“座談”をするのですが、この日は、いつものフアミレスから、場所を変えて行いました。というのも、フアミレスの手前、護国寺の大道りをはさんだ向かいに、「甲月堂」という御菓子司があり、瀟洒なたたずまいで、静寂な雰囲気。和風喫茶の、サービスもあり、7~8人で満席になる、庵のような店でした。明治20年創業といい、この、「甲月堂」の名物は、店頭に掲示されていた2010年9月28日付の読売新聞の護国寺紹介の記事によると、滋賀県の園城寺[三井寺]から護国寺に移築された月光殿にちなんだ「月光殿最中」が、有名と云います。

此処で、いろんな話の中で、中塚さんが、最近、東日本大震災で、おおきな被害を受けた宮城・石巻市に、被災地で活動するボランテアの指導者の指導訓練に、参加した時の、体験談を、披露してくれました。被災地が、一日も早く復興して欲しいのですが、被災地現地の、それぞれの、状況があって、効果的な、ボランテア活動を遂行するには、様々な障害があり、決して、はかばかしい状態ではないということでした。何事かするごとに、意見の相違があり、容易にまとまりがなされず、日本人特有な、もう、国民性といってもいいほどの、団体統一活動が合令一下、出来ない、リーダもまとめられない状態があるそうでした。

こうした、被災地の復興がままならない状況を聞きとめていた、高原講元様は、被災地の人だけが、どうして、悲惨な目に遭わねばならないのか、被災地の人たちを、何とか助け、慰めるためには、どうしたらいいのか。祈りをささげ、励ますことも、さることながら、こうした、被災者が、どうして、辛い目に遭わなければならないのか、仏教者として、考えても、考えても、まだ、理解に達しないと、真摯に呟いて居られていたのが、私の、耳朶を打っていました。

この日の参加者は、高原講元、中塚、鈴木(温)、佐竹、菱岡、角田、(角田記)
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