福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,まず自身が悟ってから他者に説法すべきか?

2017-01-28 | Q&A
Q:禅門の宗師の言葉を見ると、まず自身が悟ってから、ようやくそれまでの自分の行いによって生まれた報いを尽くし、余力があれば他人に及ぼすべきだと勧められています。もし、そうであれば、(仏の)教えの中に、「自、未だ度を得ざるに、先ず他人を度する」というのが菩薩の誓願である、というのに背いているのではないでしょうか。
 A,密教の護身法というのがありますが、これは行者が修法に入る前に必ず行ずるものです。この中には、「説法自在ならんことを」と願う修法が入っています。すなわち修行中のものも同時に衆生説法することを大切な行と示しているのです。

夢中問答集にも「・・:慈悲には3種類がある。1つは、衆生縁の慈悲、2つは、法縁の慈悲、3つは、無縁の慈悲である。
 衆生縁の慈悲というのは、生死に迷っている衆生がいるのを見て、これを度して出離させようとすることである。これは、小乗の菩薩の慈悲である。自身ばかりの出離を求める二乗心には勝っているが、世間の実有の見解に堕していて、利益の姿が残っているため、真実の慈悲ではない。『維摩経』の中で、「愛見の大悲(衆生の苦しみを見て、苦しんでいると、苦しんでいることだけにとらわれること)」と謗っているのは、このことである。
 法縁の慈悲というのは、縁によって生じた諸法は、有情も非情も皆幻のようなものであると通達して、幻の如くの大悲を起こし、幻の如くの法門を説いて、幻の如くの衆生を済度するのである。これはつまり、大乗の菩薩の慈悲である。このような慈悲は、実有の情を離れて、愛見の大悲とは異なっているけれども、しかし、幻の如くの姿を残すため、これもまた真実の慈悲ではないのである。
 無縁の慈悲というのは、仏果に至ってから後、本有性徳の慈悲が現れて、化度の心を起こさないのにも関わらず、自然に衆生を度すること、諸の水が月の影を映すようなものをいう。そうであれば、つまり、法を述べても、説・不説の隔てもなく、人を度するのに、益・無益の姿もない。これを、真実の慈悲と名付けるのである。
 衆生縁・法縁の慈悲にこだわる人は、その慈悲に邪魔されて、無縁の慈悲を発すことは出来ない。「小慈は大慈の妨げ」というのは、この意義である。百丈大智禅師が、「小功徳・小利益を貪ってはならない」と誡められるのも、この意義である。禅門の宗師が人に示そうとした意旨とは、このようなものなのだ。(夢中問答集(無窓疎石)より・・・13)」とあります。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ロブサン・センゲチベット首... | トップ | 神道大意・・・3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Q&A」カテゴリの最新記事