福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その6

2020-09-11 | 法話
だいたい六世紀頃にインドから非常な文化種族が移住して来たのでありますが、インドにそういう人種がおったかおらぬか分らない、ただ植民地の出先で非常な勢力を持ってこれが到る所に「ビヂャヤエンパイヤ」と名づける帝国を形作っているのであります。インドの本国ではどこにおったかまだよく分らないのであるが、出た所はコロマンデールの海浜から(マドラスの近傍)から出て来て、そしてセイロンは無論その勢力範囲で全く征服されたのであります。それからジャバに行ったのであるが、そのジャバを「カリンガ」(訶陵)と号しておりますからインドの南海岸から出たものに相違ないのであります。そのカリンガ時代のジャバにはご承知の通りブルバドール(千仏壇)といって、一つの山を全部彫刻して仏像壇にしたのがあります。これは東洋のギリシャといわれております。非常に立派な芸術的遺物のある所であります。而してマホメットの勢力に亡ぼされた後もこの地ばかりは亡ぼされなくして今に残っているのであります。こういう足痕を殘してスマタラに移りましては「サンブッセー」(三仏斉)という帝国を形作ったのであります。「サン」というのはスマタラ語で梵語の室利(神聖)を表する語で、神聖なるビヂャヤということで、ビヂャヤをブゼーと訛ったのであります。「ビヂャヤ」は梵語で「勝利」という語であります。それがスマタラのカレンバン河の河口に大帝国を作っておった、そこでインドに行く者は唐の時代にはここで梵語の文典を習って、そして船で島々を渡りてインドへ行くということが普通であったようで義浄三蔵もそういうふうに書いております。
 それからマレー半島に移って来ますと、マレー半島の土地の名はたいていインドの名前であります。シンガポールは「獅子城」という語でインドの言葉であります、カンボジャ(柬甫塞)というのはインドの地方の名である。唐の時代に一番盛んな所は真臘(チャンドラプーラ)という所で「月の城」というインド語であります。そのときのもう一つの中心は臨邑又は林邑といって、これは唐の時代には占波又は瞻波と称するに至った、チャンパもインドの地名である、これは新しい移住民がインドのチャンパという所から出て来たので、地名を改めたらしい、その前の名も「ルンミー」というのであるが、釋迦如来の生れた所がルンミーと申しますので、それを土語ではルンミーと申したのである。その音訳だと思います、正式の梵語では「ルンビニー」という地方で今にその古趾が残っております。今は「チャム」と云う人種が交趾に残っている、その辺から掘り出す物を見ますると、たいていインドの舎衛城であるとか、迦毘羅城であるとか、インドの名前が付いている。交趾シナあたりでは臨邑が一番北にありまして、チャム族であり、真臘(チャンプ)が南に在って今のカンボジャであります。
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