地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の1/8
地蔵菩薩三国霊験記巻十四目録
一、壬生寺 開基幷に地蔵尊の靈験
二、更雀寺 世に雀の森と云。開基幷に地蔵の靈験
三、寶蔵寺 世に関の地蔵と云ふ
四、地蔵院 宇賀逗子
五、誠心院 寺町三條下る和泉式部町
六、西林寺 世に尨毛(むくげ)の地蔵と云ふ
七、藏縁法師地蔵を信じ神通を得る事 元亨釈書に載せる所
八、如藏尼の事
地蔵菩薩三国霊験記巻十四
一、壬生寺 開基幷に地蔵尊の靈験
洛陽壬生寺は一條院の御宇正暦二年(991年)に三井寺快賢僧都(壬生寺縁起「藤氏大織冠十三世之孫。粟田關白道兼公の族なり。出塵の後三井寺に登り。智證大師の門葉と成て天台の教門其玄奥を究むといへども。慈母洪恩のむくいがたき事を思ひて。後に寺を出。京華に母をかへり見。唱導を事として緇素を引導す。すなはち此所に一宇の坊舍を營造し。定朝に命じて造らしめ本尊となん仰ぎ奉りける・・)の草創せる所なり。此の快賢と申すは粟田関白道兼公の苗裔なり。其の門資は亦智証大師の弟葉なり。されば止観傳燈の誉、自宗の甚だ明かなる事に達すといへども慈堂(慈母)懸磬(貧しくて家の中に何もないこと)て憂多く洪恩の謝しがたきことを歎きてこれによりて禅林に居を卜して穢土を厭て定水に心月を澄まして浄刹を欣求す。内には釈尊八万蔵の遺教を伺ひ外には魯聖十八章(孔子の孝経)の微言を事とす。至孝は百行の先、報恩は萬善の本なり。母にあらずんば何ぞ子を頼まむ。子に非ずんば何ぞ母を養はんと。窹て是を思ひ寝て此れを思ふ。午茶(午後の食事か)煙絶へ春彼の永日のうつりかたきことを念遣り、西揄(西に移る影のことか)影傾く夕べその餘年のいくばくならざることを歎く。仍って京華に棲て常に慈顔を拝せんと願ふ。堅牢地神も忽ちに真実の志をかんがみ近郭隣人初めて唱導の仁に招く。皆道徳に皈し緇素すでに富楼那(ふるな・説法第一)と称す。或は連々の崛請に應じ或は所々の講行に接す。彼の悲母の日計漸くかかさず。其の孝子の露誠たちまちあらはる。仍って佛師定朝に仰ぎて地蔵の尊像を彫刻し奉る。一刀三礼の懇志を尽くして一千日の間に等身の聖容を造り畢んぬ。蓮眼瞬くがごとく座像の尊顔を拝す。棘心至誠にして終に母子ともに彼の覩率の内院に移り門弟僅に此の一宇の草堂をあがむ。無縁無怙の道場なりといへども、唯一瞻一礼の利益を仰げり。抑々当寺錫杖の濫觴を尋ぬるに正暦二年(991年)佛師定朝無二の丹誠を凝らし本願快賢純一化度の慈室に坐して尊容を成就すといへども持物の錫杖成せざることを哀れみ三宝に祈求し玉ふ所に辰の一點(午前七時半)より午の刻(昼の12時)に至りて本尊の前后霧深く降りて異香四方に薫じて音楽の幽かに聖衆の歌詠とぞ覚ふ、手の平の中分に霧忽ちに晴れて彼の薩埵を拝し奉れば持物の錫杖生身のごとし。爰に快賢三七日の間一心に誠を凝らし彼の錫杖の濫觴を祈り玉ふ。一夕夢みらく、やんごとなき御僧生身の地蔵菩薩とをぼへて、昔釈迦如来伽羅陀山にして延命地蔵經を説き玉ひし時無数の声聞菩薩諸天人民雲の如く集まり、忝くも地蔵菩薩は此の六輪の杖を持して大地より涌出し玉ひしとき釈迦如来慇懃に六道の衆生を付属し玉ふ、経文明白なり。其の時の錫杖これなりと示し玉ふ云々。
自尒已来感應新にして求願立どころに成就す。且く一二を挙ぐ。
後鳥羽院の御宇建久年中の比(1190年~1199年)和州(大和国)の前吏平朝臣俊平、偏に当寺の地蔵を信じ常に参詣の志をはこびけり。其の中に一千日の間通夜の大願を発して二心なく信じ奉り、風雨を厭はず寒熱を嫌ことなく、二世の所求ことごとく成ぜざれば正覚を取らじとの本願をたのみて一千夜の参籠を滿にき。其の夜の夢に御帳の内より墨染の衣を着し玉ふ御僧の布袋を持ちて出玉ひて、白米を取り出して通夜の人々にたびけり。しかれども左衛門尉俊平には玉はらざる間、御僧に問申しければ、今一千日参りたらん時、汝には大福を與ふべしと仰せられて御帳の内へ入り玉へり。御前に通夜したる諸人幻に見奉りける其時俊平思ふやうは吾前世に結縁の薄きゆへにてこそあるらめとて本願經の文を心にうかべられける。吾業道の衆生の布施の校量を観ずるに軽きあり重きあり一生に福をうくる事あり,又十生に福を受事あり、百生千生に福を受ることありと云へる佛の金口(地藏菩薩本願經「此皆是一生十生百生千生。過去父母男女弟妹夫妻眷屬在於惡趣未得出離。無處希望福力救拔。)たのむところありと思て亦一千日の大願をぞ思い立ける。もとより一日の怠りなく歩みを運て二千夜の滿る夜の夢に亦墨染の衣着たる御僧の御帳の内より出させ玉ひて、白米の布の袋とをぼしきを俊平に給ふと見て驚きぬ。扨我が願も成就したりけると三拝して家に皈りて擁護のほどをぞ憑み居けり。然るに関東より御尋あるべき子細ありとて兵士ども来たりて引率してけり。俊平心に思ふ様地蔵の利生はあらでか、かかる不思議の事こそ当来するものかなとぞ思ひけるが見聞の族も嘲哢してぞありし。兎角して鎌倉に着きてければ種々の評議ありて既に誅罰せらるべきにぞ定まりぬ。其の夜頼朝大将の御夢に墨染の衣を召したる御僧の手に錫杖を持ち玉ひて枕の上に立ちながら、京より是に召し置し武士俊平は年頃旦那にてあり。許容してたび玉へとうつつに御覧ありける間さまざまに思案評議ありて一定せざるところに又次の夜重ねて御僧の来たり玉ひて先夜申してありし俊平がこと許したび候ふやらんと高声に仰せられけるとき、大将公何いかなる御僧なればかくは御申しあると問玉ひければ、吾は京都坊門壬生邊に住居するものなり。年来彼の男のよく存知のことなり。御たずねあるべしとて失せ玉ひぬ。不測の事に思召し翌日俊平を召して御尋ねありければ事の子細を一々に申されける。我れ幼少より取り分けて三宝に帰依することも候はず、亦殊更に善を修することもなし。唯先祖の信仰なる故に一心に地蔵菩薩を信じ奉って今世も後世も偏に此の尊の悲願を念じ二千夜の歩みを運び随分に祈念し候へば御利生はましまさず剰さへ無實の讒言を蒙りこれまで召下されし上は前業の所感と存じ究め候間一身の事は任せ奉り候今は唯来世の善所を地蔵に頼み奉るより外は他なく候とぞ申しける。頼朝公を初めとして数千の侍道理に伏し、さては此の人は故なきことに此れまで下り給ふ痛ましさよとて袖を淋らぬものはなし。大将殿も感涙を催しさては夢中の御僧は地蔵にてぞ御座すにや、能方人(よきかたうど)を持たり。いかやうの謀叛の罪ありとも汝をば許すべしとの玉へば鎌倉中の人々誠にありがたき利生かなと褒美しければ上下万民もともに地蔵をぞ信じ奉りぬ。其後本領以下の事御尋ねあり、豊後の國三重の庄(大分県豊後大野市か)は名字の地なれば云に及ばず其の外諸国の領知(まま)有りの侭に安堵の下知を成し佐渡の守に任じ馬鞍武具のこるところなく玉はりて京都に上り面目を施す事壬生の地蔵尊の御加護にてぞあり。されば信心を致す故にや富貴増益して御堂を大に建立して末世に大法会を行じて、一切衆生に値遇結縁の大願を成せしめんとの志浅からざるものをや。
(以下「太平記」三宅・荻野謀反の付壬生地蔵の事にあり)又当寺の地蔵尊を縄目の地蔵と申奉るは世流布の書に記すといへども繁きを恐るる人に略記せん。中古新田氏兵乱の時に與力したる備後三郎高徳と云者(児島高徳。南北朝時代の武将。備前の人。元弘の変で隠岐へ流される途中の後醍醐天皇の行在所に忍び込み、桜の幹に「天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇を励ましたといわれる(太平記))方便を以て尊氏将軍を怨奉らんとて究竟(くっきょう)の忍びどもを四條壬生に隠居たり。しに、如何してか漏れ聞きて時の所司代都築入道二百餘騎にて壬生の宿に未明に押し寄せる。たて籠る所の兵ども元来死生不知の者どもなりければ、家の上へ走り上り矢種のある程射つくして跡皆腹掻き破りて死にけり。是を處々に隠居たる與黨ども皆散々になりければ、高徳が支度相違して大将義治もろともに信濃國へぞ落ち行ける。さても此の日壬生の在家に隠居たる謀叛人どものがるるところなく皆討たれける中に武蔵国の住人に香勾(こうは)新左衛門高遠と云ひける者ただ一人、地蔵菩薩の命に替らせ給ひけるに依つて、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢すでに未明に四方より押し寄せて、十重二十重に取り巻きける時、この高遠ただ一人敵の中を打ち破つて、壬生の地蔵堂の中へぞ走り入りけり。いづくにか隠れましとかなたこなたを見るところに、寺僧かと思しき法師一人、堂の中より出でたりけるが、この高遠を打ち見て、「左様さやうの御姿にては叶ふまじく候ふ。この念珠にその太刀を取り代へて持たせ給へ」と云ひける間、げにもと思ひて、この法師の云ふままにぞ随ひける。斯かりけるところに寄せ手ども四五十人堂の大庭へ走り入つて、門々を指して残処無くぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰りて、「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣」(地藏菩薩本願經囑累人天品第十三「爾時世尊而説偈言。現在未來天人衆 吾今殷勤付囑汝 以大神通方便度 勿令墮在諸惡趣」)と、高らかに啓白してぞ居たりける。寄せ手の兵ども皆見之、まことに参詣の人とや思ひけん、敢へて怪しめ咎むる者一人もなし。ただ仏壇の内天井の上まで打ち破つて探せと許りぞ罵りける。爰に只今物切たりと覚しくて、鉾に血の著たる太刀を、袖の下に引側めて持たる法師、堂の傍に立たるを見付て、「すはや此にこそ落人は有けれ。」とて、抱手三人走寄て、中に挙打倒し、高手小手に禁て、侍所へ渡せば、所司代都筑入道是を請取て、詰篭の中にぞ入たりける。翌日一日有て、守手目も放たず、篭の戸も開けずして、此召人くれに失にけり。預人怪み驚て其迹を見るに、馨香座に留りて恰も牛頭旃檀の薫の如し。是のみならず、此召人を搦捕し者共の左右手、鎧の袖草摺まで異香に染て、其匂曾て失せず。と申合ける間、さては如何様直事にあらずとて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を見たてまつれば、忝も六道能化の地蔵薩埵の御身、所々刑鞭の為に黧黒(つしみぐろし)、高手小手に禁し其縄、未御衣の上に著たりけるこそ不思議なれ。是を誡め奉りぬる者共三人、発露涕泣して、罪障を懺悔するに猶を堪へず、忽に本鳥切て入道し、発心修行の身と成にけり。彼は順縁に依りて今生に命を助かる、是は逆縁に依りて値遇を得る事誠に如来の金言たがはず、今世後世よく引導し玉へり。此の因縁を以て世俗に縄目の地蔵とは申し奉るなり。其の外古今の霊験彼の寺の縁起数巻あり。其の中一毛を請問幷に世の人口にありといへども類を引きて信を励ますべきためなり。凢あそ当寺往昔大地にして堂舎僧坊美を盡し善を尽くせりといへども、乱世火災等の變数度なれば漸く荒亡して纔に迹を残し玉へり。然りと雖も佛の神通妙用豈世の治乱の事の興廃に拘ることあらんや。水有れば則ち月有り。信有れば則ち此こに應ずるものなり。尊ぶべし仰ぐべし。