82番根来寺から83番一宮寺へは12キロくらいです。遍路路には たんぽぽが咲き乱れていました。芭蕉は「世の人のみつけぬ花や 軒の栗」と詠みましたが、こちらは
「深山路の 夏遍路みる つつみぐさ」(行者)
といったところでしょうか。
この道で逆打の上品な初老の白人夫婦とすれちがい挨拶をかわしました。
オランダ、エストニア、アメリカ、フランスなどこれまでにもおおくの外人とであいました。皆遍路装束で真面目でした。聖書には「みこころが天に成るがごとく地にも成る」ありますが、維摩経でも「国土の清浄を欲する菩薩は自己の心を治め浄めることにつとめるべきである。 なんとなればどのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、佛国土の清浄があるからである」とあります。「浄佛国土」とは「摩訶般若波羅蜜經」「大智度論」「注維摩詰經」「摩訶止觀」「金光明最勝王經玄樞」「往生要集」など多くの仏教経典にでてくる言葉です。「成就衆生、浄佛国土」として出てきます。衆生が成就する(悟る)ことによって佛国土は清められると読めます。衆生の心が向上すればその国土は浄くとなるとでも訳せると思いますが、要は衆生の心と住んでいる国土は切り離せないように一体となっていることを示しているといえます。瓜生津隆真「成仏國土と菩薩道」では「成仏國土の思想は初期大乗仏教の主要経典である『阿閦佛國経』『大阿弥陀経』『大品般若経』『華厳経』『法華経』『佛名経』などの説かれているが、・・・もっともまとまった所説は『維摩経佛國品第一』であろう。そこでは『衆生と云う國土こそ實は菩薩の仏土なのである。・・衆生が鍛錬されていく状態、其れに応じて佛國土が考えられる。・・・佛國土は衆生を抜きにして空中にはつくられるはずもなく・・。国土清浄を欲する菩薩は自己の心を治め清めることにつとめるべきである。なんとなればどのように菩薩の心が清らかであるかみよって佛国土の清浄があるからである。』・・」とありました。
衆生は心次第で魔物にもなれば仏にも成る存在です。六道をとめどなく彷徨っている存在です。さすれば我々衆生がふとしたことで魔物になればその住んでいる國土は魔の國土に成るのは当たり前です。
「心」は世界中の人類に普遍的なものです。みんなの心で素晴らしい世界をえがけばすばらしい地球ができるのです。 我々は本当は素晴らしい世界(法界)の真っ只中に生きているのにそれに背をむけて苦しい苦しいと云っているということでもあります。
「深山路の 夏遍路みる つつみぐさ」(行者)
といったところでしょうか。
この道で逆打の上品な初老の白人夫婦とすれちがい挨拶をかわしました。
オランダ、エストニア、アメリカ、フランスなどこれまでにもおおくの外人とであいました。皆遍路装束で真面目でした。聖書には「みこころが天に成るがごとく地にも成る」ありますが、維摩経でも「国土の清浄を欲する菩薩は自己の心を治め浄めることにつとめるべきである。 なんとなればどのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、佛国土の清浄があるからである」とあります。「浄佛国土」とは「摩訶般若波羅蜜經」「大智度論」「注維摩詰經」「摩訶止觀」「金光明最勝王經玄樞」「往生要集」など多くの仏教経典にでてくる言葉です。「成就衆生、浄佛国土」として出てきます。衆生が成就する(悟る)ことによって佛国土は清められると読めます。衆生の心が向上すればその国土は浄くとなるとでも訳せると思いますが、要は衆生の心と住んでいる国土は切り離せないように一体となっていることを示しているといえます。瓜生津隆真「成仏國土と菩薩道」では「成仏國土の思想は初期大乗仏教の主要経典である『阿閦佛國経』『大阿弥陀経』『大品般若経』『華厳経』『法華経』『佛名経』などの説かれているが、・・・もっともまとまった所説は『維摩経佛國品第一』であろう。そこでは『衆生と云う國土こそ實は菩薩の仏土なのである。・・衆生が鍛錬されていく状態、其れに応じて佛國土が考えられる。・・・佛國土は衆生を抜きにして空中にはつくられるはずもなく・・。国土清浄を欲する菩薩は自己の心を治め清めることにつとめるべきである。なんとなればどのように菩薩の心が清らかであるかみよって佛国土の清浄があるからである。』・・」とありました。
衆生は心次第で魔物にもなれば仏にも成る存在です。六道をとめどなく彷徨っている存在です。さすれば我々衆生がふとしたことで魔物になればその住んでいる國土は魔の國土に成るのは当たり前です。
「心」は世界中の人類に普遍的なものです。みんなの心で素晴らしい世界をえがけばすばらしい地球ができるのです。 我々は本当は素晴らしい世界(法界)の真っ只中に生きているのにそれに背をむけて苦しい苦しいと云っているということでもあります。