福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

秩父三十四所観音霊験圓通傳 秩父沙門圓宗編・・31/34

2023-10-31 | 先祖供養

 

第三十一番  わしのいはや鷲窟山観音院。御堂三間四面南向。

本尊聖觀音 座像御長一尺八寸(55cm) 行基菩薩御作

 

此本尊は行基菩薩當郡の霊地數ヶ處を開闢ましませし時、此地も等く本尊を彫刻し給ひ堂塔建立し給ふ。 後佛法流布の霊地成しを、承平五年相馬の将門が兵亂に、國中騒動して國民皆離散し、神社佛閣廃壊せしより、此處は無佛世界とも云つべく、本尊も何人の何れの地へか移奉けん、更に知者もなく年月を經て、鎌倉の右幕下頼朝の海内を治させ給ふ頃、當國の住人庄司重忠一日此處に田獵して鹿を追て當山に 登 其臣本田、榛澤、久米、高野、引間、小櫃以下の兵士數十騎相従、其武備の厳重成整々として隊伍亂ず、元より重忠は寛仁大度の名将、當時の君子と仰がれ、民とゝもに樂をしければ、芻蕘(すうじょう。草刈り樵)の類迄欣々然として道を清、大路に伏して拜しける。重忠馬上より梢に一つの鷲の巣に籠れるを見て、誰か有あ れ射て落と下知しければ、親常仕り候はんと馬上より放ける、矢の飛かえつて鐵壁を射るが如し。榛澤、 引間、吉田、大宮など云兵ども、吾も吾もと射かくる矢の鏃碎て玉ちる計、鷲は虚空に飛去ぬ 重忠いぶかしく思て、何様此巣に子細あらんずるぞ探て見よとあれば、承ぬと兵ども走登て、難なく鷲の巣を おろして各立寄是を見に、御長一尺八寸の正観音の像座す。重忠馬より飛で下り、本尊を岩上に立て恭敬禮拜して、かゝる奇瑞あらんとてか 昨夜不思議の夢を見つる、所は何地とても覺ず田獵に出しに、いさゝかの小鳥一だに取得ず、夢心に甚怒て馬引かへす處に、白髪の老翁轡にすがりて今日は何の御得物も侍らじ、明日出させ給はゞ必よろしき獲あらん、疑はせ給ひぞとかきけして失ぬ、跡に短冊有、取て見れば文字有、行基の二字ありと見て夢さめぬ。傳聞く商の高宗夢相に依て良弼傳説を得たり(尚書「(高宗)夢に帝(上帝)予に良弼をたまふ。・・説、傳厳におり、これ肖たり乃ち立てて相と作す」)、周の文王も呂尚を得給ふ、必よろしき獲あらんと志て來し處に、今此尊を得たり、必行基菩薩の彫刻成べし、 夢中に見し行基の二字暗に不違けりと、感歎の餘り此地の古老を召出して、汝等此地の昔寺院成けるか 不知やと尋問はれければ、郷民ども申けるは、己等いまだ幼なかりし頃、古き人の語侍しは、此處往古は貴き寺院にて、行基菩薩とかや申名僧開基し給ひ、佛法繁昌の霊地成しが、兵亂に悉く破却せられ、 本尊も堂塔も跡かたなしと云傳ふと承り侍べると申せば、重忠彌信仰して急ぎ御堂を建立せしめ、本尊を安置し自供養の禮を盡し、日々に参詣して渇仰の首を傾られし。是當寺中興の來由にして、代々重忠の家臣等が末裔當國の所々に散在せるも、亦當郡に居住の者も 各祖先の志を繼で、今に於信仰不淺とかや。

「深山路を かきわけ尋ね行見れば 鷲のいはやに ひびく瀧津瀬」

當山の詠歌、註解に不及略之。當山の岩石に弘法大師彫刻の千體佛有當所𦾔跡甚多し、案内記に委細也。此編に略す。奥院に地蔵菩薩坐す、巡禮の人必詣で拝すべし。傍に弘法大師の壇の跡有。重忠の馬を繋し𦾔跡、本田親常が矢の跡と云處有。今も當國の所々、此郡中には重忠に仕し兵士どもの孫とて、百姓の中に數多有之。亦當山は往古より山の相、天竺の霊鷲山に似たればとて、鷲の窟と名付しに、件の靈鷲本尊を守奉て、再當山に安置し中興せしむるが故に、倍其名の唐損からざる事を信ず。已上。

 

 

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