福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大師の時代(榊亮三郎)・・その5

2013-11-12 | 法話

大師の時代(榊亮三郎)その5
しかし、茲に諸君に注意を願ひますことがある、外でもないが、般若三藏が、景淨と共に、胡語から、理趣經を譯したと云ふことは、何人も知悉する所であるが、其の所謂胡語とは、如何なる國語であるかゞ、一問題である、當時般若三藏は、梵語は出來るも、支那語は充分でなく、已むを得ず、景淨の手を煩はして、理趣經の胡譯から、支那語に譯して貰ふたのであるが、其の所謂胡語とは决して、胡越一家など云ふときの南越に對する北胡ではない、胡馬嘶北風など云ふときの北胡ではない、即ち匈奴でもなければ、突厥でもない、當時支那の文明と比較して、遜色ない文明を有して居つた、波斯語系の國民の語であつて、今日から云ふと、「サマルカンド」一帶の地方の語である、即ち、「ゾグデイアナ」と云ふ地方の語で、其の國語は、「ソグド」(Sogd)と云ふたのである、由來此の地方は、印度、支那、並に波斯以西の諸國との交通の廣衢に中りて、佛教なども、夙に此の地方に流布したと見え、漢魏の時代には、此の地方から、支那へ來た高祖が少くない、康僧鎧だの、康孟詳だの、康巨だの、康僧會だのと、康の字を冠した連中は、此の地方の出身で、大法を支那に傳へん爲め、流沙葱嶺の險を凌ぎて、支那に來たのである、此等の高僧の譯した、經を見ると、中には必ずしも、梵語から譯したものとのみ見るべからざるものがある、よく/\、[#「、」は底本では「。」]調べたら、或は、其の國語から重譯したものと思わるゝものもあるであらう、景淨は、其の本名「アダム」と云つたことが明白であつて見ると、波斯又は其の傍近の國の出身たることは、明白であるが、其の所謂胡語と云つたは、「ソグド」の語であつたとすれば、當時大乘理趣六波羅蜜多經は、梵語から、「ソグド」に譯せられたか、又はこれに類する傍近の國語に譯せられたことが明白で、基督教の一派である景教の僧ではあつたが、景淨は、已にこれを知つて居つたのである、して見れば、當時密教流布の地域は、獨り印度のみでなく、西藏のみでなく、支那のみでなく、波斯語系の民族の間にも普及して居たことは、推察出來る次第である、若し般若三藏が、後に梵語から更らに譯し改めなかつたなら、景淨が、自國の語から重譯した理趣六波羅蜜多經が、今日諸君の所依の經典となつたかも知れない。
以上説いた所で、大師在唐の當時には、長安には、祆教と景教とが流布して居つたことが、明白であるが、これは、所謂祆教を、我が國の東洋學者の嚴密な解釋に從つて、「マズデイズム」とのみ解釋した結果であるが、我々局外者の目から見れば、長安志や、佛祖統記などに所謂祆教とは、果して、「マズデイズム」と云ふ宗教のみを指したに止まるが、否やは疑しい、現に、佛祖統記には、貞正觀[#「貞正觀」はママ]五年の記事に、初波斯國、蘇魯支立末尼火祆教とあり、註に祆火煙反胡神即外道梵志也、とし、又勅於京師、建大秦寺云々とあるが、蘇魯支と云ふは、英語などに云ふ「ゾロアスター」を云ふにあるも、英語の「ゾロアスター」は、希臘語の「サズラウテース」(Zathrautes)又は「ゾロストロス」(Zoroastros)から來たのであつて希臘語の方は、「ゼント」語の(Zarathustraザラツユシユトラ)の訛略を寫したに外ならない、しかし支那の方で云ふ、蘇魯支は、「ゼント」語の舊き形を音譯したとも見えない、察する所、これと、類似した、土語の訛略(Zroscヅロシユ)又は(Sroscスロツシユ)を音譯したに違ひない、此れは、餘事ではあるが、蘇魯支、即ち、「ゾロアスター」は、成程「マズデイズム」の建設者とは云へるであらうが、摩尼教の建設者は別にある故、蘇魯支は初めて末尼火祆教を建つと云ふは、とりもなほさず、一般支那人の目には、末尼教も、マズデイズム即ち祆教も同一のやうに見えた一證據であるマズデイズムは、「アフラ、マズダ」(Ahura-mazda)に事へる宗教で、其の「アフラ」は、梵語の「アスラ」(Asura)と同一語根で、梵語の方では、阿修羅即ち非天と云ふ風に凶惡の神と云ふことに、後世では、變じて居るが、「ゼンド」語の方では、善神を云ふ方に、使用せられて居る、此の方が、「アスラ」又は、「アフラ」の本來の意義である、現に梵語でも、吠陀の文學には、「アスラ」即ち阿修羅を善き神と云ふ方に用ひた例があると記憶する、殊に「アフラ、マズダ」は、至大至善の神で、全知全能の神である、又精神界の光明の神である、この神に對して、Anroアンロ[#nは上ドット付き]-mainyusマークヌス と云ふ惡神が戰をして居る、此の惡神は、精神界の暗黒を代表する神で、世界は以上二神の爭鬪であると見るが、「マズデイズム」の見方で、聖賢が、世に出でゝ、善神を扶けて、惡神を退ける任務を有したもので、「ゾロアスター」も、其の一人である。
此の教は、其の根本の主義から云ふと、二元論であつて、かゝる思想は、悠古の時代から、「イラン」民族の中に存在したが、これを組織して、一の體系ある宗教とした人は、即ち「ゾロアスター」であつたことゝ信ずる、昔は、波斯で中々勢力あつた宗教で、西暦第七世紀の半に至るまでは、殆んど波斯の國教であつた、今でも、印度の西海岸に、孟買だとか、「ゾロダ」とか云ふ地方にある「パーシイ」は、拜火教徒と云ふが即ち、※(「示+夭」、第3水準1-89-21)教の徒である、波斯自身にも、異教徒即ち「クエープル」の名の下に、此の信徒が殘つて居る。
此の「マスデイズム」を、基礎として、これに基督教と、佛教と、其の他の東洋思想とを合せ、融會し、合糅して西暦第三世紀の後半に波斯に於て、建設した新宗教は、即ち、末尼教である、西洋人の所謂「マニデイズム」(Manicheism)は、是れである、其の教祖は「マネース」又は、「マニ」と云つて、西暦二百四十年波斯に生れ、二百七十四年に死した、生存の歳月から云ふと、基督教と同じく、三十有餘歳に出でないが、教義の流布したことは、非常で、地中海の沿岸を席捲し、一時は、基督教の勢力を凌駕せん許りで、有名な「オーガスチン」なども、若い時代は、此の教徒であつたのでも判る、其の教旨は、前に申した通り、波斯在來の祆教を基礎としたものであるから、二元論で、善惡眞僞の二元は、假りに、明暗の二元で代表せしめ、善の方は、精神又は光明の神、惡の方は、暗黒の神、即ち惡魔で、また物質そのものである、かゝる次第であるから、一般支那人の目から見たときは、末尼教も、祆教も殆んど同一の樣に見えたに相違なく、少くも、大同小異のものであるから、或は摩尼火祆教と一括し、大秦胡寺などゝ一括した名稱で、此等の二種の宗教を呼んだものと見える。
して見れば、長安志の所謂祆祠と云ふは、必ずしも、「ゾロアスター」の建てた「マズデイズム」の殿堂とは、限られない、末尼教の殿堂とも、解し得べきであると私は信ずる、現に末尼教は、大師の入唐以前百十年武周の延載元年に、長安に入つたことは、佛祖統記に出て居る、其の原文は、波斯國人拂多誕(西海大秦國人)持二宗經僞教來朝とある、二宗經僞教とは、即ち摩尼教を指したものである、二宗とは、二元と云ふと同じく、明暗の二元を指したもので、其の二、所謂二所とは、「パーラ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)」語か、「ソグデイヤナ」語の D※(ダイエレシス付きO小文字)-b※(マクロン付きU小文字)n の翻譯に外ならない、明暗生死の二元過去現在未來の三際は、末尼教徒が、受戒するときに、必ず會得すべき教理であるから、かく二宗經僞教と云ふたものと信ずる、又拂多誕とあるは、一寸見ると、波斯の人名であるやうに見ゆるが、是れも恐らく Fur-sta-d※(マクロン付きA小文字)n 即ち、法教師と云ふ「パーラ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)」語の音譯であるとの事であるが、私もこれには賛成する。
要するに、大師入唐の時代には、長安には、波斯の宗教が一つ又は二つ、基督教の一派の「ネストリヤニズム」も入つたことは事實である、即ち祆教も、景教も、事によると、摩尼教も、長安にあつた次第である、摩尼教は、長安にあつたことが疑はしきとするも、支那には、當時流布して居つた事は、動かすことが出來ない、佛祖統記によると、開元二十年即ち金剛智三藏が示寂の年に、玄宗皇帝の詔勅が出て居る。
 末尼本是邪見、妄託佛教、既是西胡師法、其徒自行、不須科罰、とある、又大師入唐に先つ僅に三年即ち八百〇一年に完成した杜祐の通典には、此の事を開元二十年七月勅として、末摩尼法本是邪見、妄稱佛教、誑惑黎元、宜嚴加禁斷、以其西胡等既是郷法、當身自行、不須科罪者とある、末摩尼とは M※(マクロン付きA小文字)rマール-m※(マクロン付きA小文字)niマーニ の音譯で、摩尼主と云ふ義である、當時佛教の教理に附會して盛んに支那人を化度したものだから、玄宗皇帝は、詔を下して、波斯人自身は邪法であらうが、正法であらうが、兎もかく、故國の教法であるから、信仰するも、差支えないが、支那人は、これを信じてはいけぬ、信ずれば、刑罰を加へるぞと云つたのである、察する所、かゝる詔勅を發せらるゝに至つては、玄宗皇帝の側に居つた佛教の高僧か道教の道士等の建策によると思ふが、かゝる詔勅を發して、政治上の勢力により、宗教の傳播を壓抑せんとしたを見ても、當時摩尼教は、佛道二教の一敵國であつた事が判然する、併しかく詔勅があつたにも拘らず、宗教の勞力は到底政治の力で動かすことの出來ぬもので、日々に増進したと見えて、恰も大師歸朝の年から數へて三十七年目に當る武宗皇后の會昌三年には、末尼教の迫害が行はれた、勅天下、末尼寺並令廢罷、京師女末尼七十人皆死、在回紇者、流之諸道、死者大半と、佛祖統記に出で居る、其の教徒の熱心に教を奉じ、壯烈に教に殉じたことは、これでも明白である、京師にある女末尼七十人は、皆死んだとある、徳川時代の初期に、基督教迫害のあつた當時、九州邊の日本人で、教に殉じたものも、中々あつたが、これで見ると、宗教には、國境、種族の別はないもので、善い宗教であり、善い人がこれを護持して流布さすと、如何なる國に於ても、如何なる種族のものゝ中でも、信者を得ることは出來る、政治家などで、善良な宗教の力を、政治の力で左右しやうとするは、蟷螂の龍車に向ふごときものだ、これで見るも、大師の在唐當時の長安には、末尼教なく、三十七年の後にかく熱烈なる末尼教が、長安に出來たとは思はれない、必ずや、其の以前から、長安に根據をすえて、熱心に支那人に對し、布教したものと、私は斷言して、憚らない次第である。
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